その2

 知性は常に限界状況にある。物質的な世界の広がりがどこまでか定かではないのは、認識対象がつねに動的である可能性を孕んでいるからだ。いつの世界のことについてなのかで、話が異なってくるのが現実のとき、私たちには知り得る世界の全体像がない。止まることを知らないからこそ万物は実在可能だが、いかに実在するかは、一瞬のうちにも差異がある。差異である万物は非絶対的であり、握り締めた何もが震えである事実から逃れることはできない。震えとしか認識できないから震えであるのではない。震え続けることはあらゆる認識主体の側からのみならず、そのものからしてもそのものは震えである。止まってしまえば無である。何かがあっても、そのものの内で何も起こらないようであれば、そのものは実在しない。起こっているコトがあるから、そのものはある。そのものはどんなコトでできあがっているのか。

  もの以前にコトがあった。コトから始まったものがある。ものになったコトだった。コトのまま、ものにならなかった。ものがあるのは、コトがあったから。コトがあるのはどういうコトか。ものから生まれたコトがあるのか。何も起こっていない、無内容なものがあるのか。虚無が実在したか。どこまで探っても何も起こっていないものがいかなる認識主体をもつことなく、他との関わりを完全にさえぎったうえで実在していた可能性はあるか。そうかもしれないし、そうでないかもしれないこと。可能性といった物質があるのは私たちの精神のうちにのみで、生命を抜きにしたとき、世界には可能性がなくなるか。可能性とは何か。起こりうると考えられることで、起こり得ないことも含む。世界がどうなっていくか、いつも定かではない世界は可能性そのものではないか。私たちのいるいないに関わりはない。世界があれば、それは可能性の実在した世界である。運動が根元の世界は可能性で満ち溢れている。ものそのものがどう動くか。認識主体を喪失した世界にはそれでも可能性がある。一瞬のうちにどれほどの可能性が秘められ、運動をしていることか。世界を再現できる可能性はゼロだ。実現した世界を再生することはできない。時間は運動する、不可逆性がその本質ではないか。現在があると感じるのは私たちの意識の実在によるのではないか。意識された世界に今ができあがる。今はいつなのかは定かではない。意識のうちに滞留する時間をいまと直感するのは私たちであり、世界ではない。世界にとって時間とは何か。