その165

 存在は認識されようとされまいと、実際的に実在している。認識されたからといっても、そのことがそのままあり得るのではない。一個のりんごの運動のあるがままを捉えることができないとき、私たちの認識とは何か。いかなるものか。細部のプラスとマイナスの運動それ自体を具に捉えることのない認識とはつまり概論にすぎないのではないか。物そのものの運動が存在の全てであるといったとき、その運動の実質をそのまま捉えた認識は存在しないのではないか。実質的ではない認識とは何か。概論である認識とは何か。存在が具に変動していくことで存在は存続することが可能なのであり、存在から運動を奪い去ってしまっては、存在それ自体が実在不可能となる。運動がある。それは意味の変化であり、意味の変化があることが、存在を実在させる要因となっているのではないか。存在があるから運動があるのではなく、運動があるから存在がある。存在は運動とイコールなのか。運動は存在以前にある意味のことなのか。意味とは何かそれは定かではないが、原初的な意味の実在により、存在は運動をするのではないか。いや。意味の実在により、存在を存在させるための運動が発生するのではないか。還元するに、運動とはエネルギーのことで、存在はそれがいかなるものであっても、エネルギーが姿を変えたものと考えられないか。運動それ自体の実在が存在のことではないか。あらゆる存在は運動により捕らえられることで姿を変えていく。運動のありようが存在の姿に影響を与えていくのではないか。存在にはどんな意味があるのか、個別に考えていくことで、存在の実質が浮かび上がってくるのかもしれない。ピュシスについて知りうるためにも、存在の運動を元に考えた、意味の探究が求められるのではないか。