言葉から言葉へ

 「私はご飯を食べた。おいしかった。」といった文について考えてみる。そもそも、アウトプットされた文というものは、文語でも口語であっても、一語ずつ並べていかれるときに、一語ずつがその都度その語を自らで定義しながら紡がれているのではないかと。

 私はご飯を食べた。と記された文について、文の全体像が記された後であればすべてが見えるものの、記す主体からすると紡いだ語の定義を受けて次の語を置くことになる。初めから文の全体像があるのではない。順次、情報が追加されていくといった寸法だ。

 私、は、ご飯、を、食べ、た。に分解して考えてみると、私といった人格を置いたあとに、は、を持ってくることで、私が主語化される。主体が完成し、その行為が続いて述べられる。何をいかにするのか。ご飯、ときたが、私はご飯、までで止まれば、私=ご飯の可能性を含んでいることになる。

 私はご飯、といったとき、私はご飯という存在であるといった比喩でもあるし、私はご飯にするといった意味も持つ。その他にも意味があるかもしれない。私はご飯、といった表現が一個、動かざるものとしてあっても、その含もうとする環境性により規定されるのが言語であり、私はご飯、といった表現の不動性が不動でないといったパラドックスを抱えているのが私たちの言語の性質である。

 私はご飯、が不動であるのは何をもってしてのことか。外観ではないか。字体や発声には差異があるものの、私といった語はその領域内にあるからこそ、私として成立する。他者に伝わるか否かが鍵となる語は、それがいかにアウトプットされようと伝われば、実在と認知される。

 領域を抱えた語がそれでも不動であると考えられるのは、あらゆる主体からアウトプットされる語はその都度その一回性をうちに秘めている。主体からすると他者に伝わってこその語は伝わった瞬間にかりそめの完成をみる。その一瞬とは不動ではないか。世界が動かざる証をもったと考えられないか。

 物理的には不動ではない。エネルギーである万物は語であってもその限りである。エネルギーにより成立しているものはすべてが運動である。アウトプットされた語は書かれたものでも、発話されたものでも、動きをもつことで実在可能となる。僅かにでも動いているなら、動いていると考えなければならない。外観はイメージに過ぎない。実態はイメージを超えたところに運動としてある。

 どれほど動かないように見えたところで動いているものは動いている。動いていないものは存在不可能である。文字は動いている。では、その意味は動いているのか。意味とは何か。私、には私といった意味がある。他の何でもない私である。しかし、一意的に私を規定することは可能か。

 私の数だけ私がいる。単一の私であってもときどきの私がいる。私はご飯、に対する私とは、誰かにことであり、それが私の意味する内容になる。どの時に私かが明確にあるなら、私の意味は不動といっていいのかもしれない。私はご飯、と記されたときの私は、ご飯との関連にある。ご飯に規定された私でもある。

 私だけが単独にあるとき、どの私かが規定されない。語は環境を与えられることで意味をえる。辞書のなかにある語はその限りでは意味をもつが、実際上では、さらなる細部が私といった語の規定にかかわってくる。私、とは何か。私とはその規定上、不動であるが故に私であるのではないか。私といった語の成立のためには私が私でなければならない。私は私である同一性をつねに孕んでいる。

 同一の私といった意味ではない。私が私である限り保たれる領域が実在することが私の同一性である。りんごであってもそれはりんごとしての成立のために同一性をもつ。りんごはりんごであるからりんごなのであるといった同語反復の状況がりんごの実態ではないか。りんごと記されたりんごがりんごでないことはない。りんごと記された限り、それはりんごでしかない。他の何かを完全に遮ったうえで、りんごはりんごなのである。

 りんごもさることながら、私、といった語が不動であるのは、私が不動であるというよりか、私といった語の成立は私以外の語を完全に遮断しないと成立しないといった実態がある。私は完全に私である。私以外の語は語であるといった枠内では同一であるが、私のもつ意味からの逸脱が許されない私は私であるしかない。語は一語ずつがその定義である。定義の枠内に収まり切らない定義である。

 私は私である限り私である。私でない私は私として成立しないが故に私は私としての不動性をもつ。私は不動の私である。存在する物事なのかで私とは一個の現象である。不動である私は差異をはらむ。異なっている私がすべて私であるのは私が不動であるからだ。変わらない私といった定義が世界の側にある。私たちの側にあるのではない。

 変動にある世界に私といった一個の現象がある。私は相転移しない。氷は水となるが、私は私でしかない。私の中で何が変動しても私であることに変更は加えられない。言語としての、動かざる私が私の領域を保つことで私は実在する。言語としてのりんごも現実のりんごの領域を抱え込むことで不動の一語として成立する。言語のりんごは現実のりんごではないが、なぜか現実のりんごにあてはまる。

 りんごとの記載の細部にわたるすべてがりんごの意味をもつのではない。りんごとの記載が現実のりんごを映し出すことはないが、イメージを喚起する力はある。私たちみなで共通了解をもっていることがりんごをりんごたらしめている。私だけのりんごはない。誰かとのりんごである。

 りんごと記述すれば伝わるのは虚空に浮かんだりんごのイメージで脱環境的な実在がりんごといった記載であり、発語である。あらゆるりんごに当てはまるりんごは周囲の環境に左右されてはいけない。環境規定性からの解放がまずあってこそ言語は機能する。まず先に虚空の実在を措定したうえでの言語活動である。私たちは言語を用いて説明をしていく。抽象から具体へと向かうプロセスが言語活動ではないか。順次規定していくことが文を作っていく。

 私はご飯を食べた。おいしかった。において、一語ずつが不動の一点の働きをし、全体では具体化されている。私も、ご飯も、食べたも、それぞれがそれぞれの働きをしている。私は私であり、ご飯はご飯である。食べたは食べたでしかない。個別にある語の疑いようのなさがあったうえで、全体が構築される。全体としてできあがった具体のイメージは個別の語の抽象性を消滅させる働きをもつ。文は具体であり、語は抽象である。

 私といった語が定位することで始まった文では、次に、は、がきた。私は、である。私は、が初めにきたときの働きは主語でしかない。私は、なんなのか、どうしたのか。私は、と読んだ瞬間に誰もが思うことは、システム化されたことである。文とは主体的な構築であるものの、文法法則がそれ以前にある。文法の枠内での自由である。

 法則の幻影からの影響下にある私は意識せずとも実際上、枠組みのなかでの動きを求められている。私はご飯を食べた。といったとき、私、も、ご飯、も、食べた、も、すでに存在する語であり、独創性とはいっさい関わりがない。事実が先にある。私はご飯を食べたから、私はご飯を食べた、と記すことができ、用いた語のいずれもが公のものに過ぎない。出来事としては私的だが、言語に置き換えられたとき、純粋に私的であるというのではない。

 個人に属した出来事が言語化されるとき、公のフィルターを通過せざるを得ない。公の語を用いるからといっても、文はすべてが公のものであるというのではない。私的言語もある。私的である言語は公の語を用いて行われる。公に語があるから私的な言語も可能となる。私的な言語も公に拓かれていてこそか。私的であるからといっても、私的で閉じてしまっていては、その使用の意味がないと考えられる。個人で書いた日記であっても、書かれている内容は公との関連にあるはずだ。私的でしかない出来事はあるのか。私的な室内にあるものの幾つもが他者により作られているとき、純粋な私的さは存在しない。 

 関係の一切を断ち切ったうえで私だけが生きている状況がこの世界に実在するか。一歩も外へでないとき、私だけの空間にいることが可能か。起こっていることのすべてが世界であるとするとき、起こっていることのうちに私だけの関与しかないできごとだけがある世界が純粋私的空間であるが、そういった空間の実在はあり得ない。純粋私的空間は存在し得ない。

 森の中に住むとしても、私にだけに関わることだけが起こる空間はない。自然はすでに私にとっての他である。他の介入は公の概念のない地点でも起こりうる。私とは他である。他である私は他を言語で規定する。他が私にとって他であるのは言語の働きによる。私の紡ぐ言語は私にとっての他をうみだす。言語とは他である。

 私の外部にあるのが、私はご飯をたべた。であるのか。私が発した言葉が私に属していないわけではないが、私の外部も私であるとき、私の発話は私の外部にある私である。私の発話は私を含む公の言語をもとに構築された私の外部である。私の内部でもある私にとっての公は私により外部化されることで公化される。私が発することの私的さがそのまま言語化されるのではない。大元にあったと考えられる私的さは言語のフィルターを通すことで私の外部になる。私は公の一部であり、私の外部である。私の属性が意識されずとも私のうちにある。

 言語を用いることは私の外部化である。私を外にだすことは私と他の区別とは違う。言語は私にとっての他ではない。私から外へでたからといって私の他にはならない。私の外部にあるが私であるものと、私の外部にあるが私との関わりにないものがある。私が関係をもたないものがある。一個の私の人生が紡いだ痕跡の一切と関係をもたないことが永遠に実在するのがこの世界ではないか。

 一個の世界にあるからといってもすべてがつながっているのではない。繋がりがあるものの背後では繋がりのなさが実在しているのではないか。80年間生きて死に、一度も出会ったことのない人が何人もいる。出会うといった出来事の実在において、出会ったか、出会っていないか、でしかない。出会うことで関係をもつとき、出会わなかったなら、関係をもつことがない。物理的な次元で出会わなかったまま、無関係である事実は、一個の世界のなかに分断をうまないか。

 世界のなかにすべてがある。だからといってもすべてが関わりをもつことはない。食べたか、食べてないかで考えたとき、食べたといった事実は完全に食べていない事実を排斥する関係にある。食べたといった事実がひとつあれば、食べていないといった事実がひとつある。食べた事実と食べていない事実は何かひとつでも関係をもっているか。

 食べた事実に食べていない事実に内包される要素が含まれているなら、食べたと食べてないは関係をもつ。食べていないときに含まれる要素に何を食べていないかがある。何を食べたか、食べていないかであれば、何をを機軸にすることが食べたと食べていないの双方に含まれる。同一のものを元に食べたか、食べていないかといった現象が起こっているのである。

 同一ものから派生した現象がいくつかあるとき、起こったことは一個でしかない。同一のりんごから食べたと食べていないが同時に発生することはない。りんごを食べたは、食べていないと関係があるかないかを考えること自体に意味があるのか。ことは時系列に沿ってできあがっていく。食べていないが先にあったあとで食べたがくることは考えられるが、一個のりんごを元に考えられるといっても、食べると食べていないは個別に異なったできごとではないか。食べたりんごは変化するりんごである。食べていなかったときのりんごと食べたときのりんごは同一のりんごであっても異なったりんごである。食べていないといった断定的行為がまずあり、その関連にそのりんごがある。食べたかそうでないかが主であるとき、りんごは対象である。食べた、食べていないのは何か。りんごであるが、刻々と移ろいゆくりんごであるのだから、行為の絶対性に含まれるりんごは非絶対的であり、絶えることのない変容のなかに食べたや食べていないといった一個の実体がある状況において、食べたは単独の孤立系であり、食べていないは単独の孤立系ではないか。何をにあたるりんごが変容する幻影であるのだから、食べたと食べていないにりんごが関わりをもつといっても、異なったりんごは差異の連続であり、差異を内包するりんごに対して実体としてあるのはりんごではなく、食べたか、食べていないかである。食べたと食べていないかが関係をどう結んでいるのか。まったく無関係といっていいのか。無関係とは起こっていることが一切のつながりを持たないことであるとの定義に従って考えていくとき、食べたといったできごとと、食べていないといったできごとの間に完全なる断絶があるのか。時空的な断絶が本当にあると考えられるのか。同一のりんごの元にするといってもりんごはいつも違う。連続する包括的な実在であるりんごの数値は変容しながら食べられたり、食べられないままであったりする。あるりんごを食べなかった後に食べたとき、ひたすらなる変容を続けているりんごを食べなかったり食べたりするのだから、食べたと食べていないには関わりがあるようでいて、食べたことと食べていないことが同時に起こることはない。順番に起こっている。食べない状況が終わったあとに食べた状況がある。その間に埋め尽くすことのできない断絶があると考えるのか、埋める必要のない繋がりがあると考えるのか。起こっていることが時空間でどういった運動の状況にあるかを観察したいところだ。食べていないことから食べたことに変わるとき、どっちつかずの状況がある可能性はある。定義の問題を超えた物理的なジレンマがあると考えるのはこの私たちが認識しようとすることにある。私たちは言葉で認識をするが、言葉での認識の限界がある。実際はどうなのかを問う以前に、言葉はその定めが元にあったうえで機能するのだから、そのできごとに意義を唱えてもそれ以上の解決はない。食べたと食べていないの間には言葉ならぬ言葉の介在があるのではないか。認識しようしなければ何もわからないとき、言葉をもとにした精神は物理空間の連続性を破壊する性質がある。繋がっていることを断ち切る働きが私たちの認識にあると考えられるのは、私たちが言葉をもちいて精神的な営みを送っているからだ。食べたと食べてないはそれぞれ一個のできごとであり、似て非なるものとしてそれぞれが孤立の系にある。

 ご飯を食べた、は、ご飯を食べた事実を物語っている。それ以外の意味はない、孤立系である。飲み物を飲んだを完全に排斥する。飲み物を飲んだがご飯を食べた、と何らかの関わりにあると考えた時、無関係性が明らかとなる。無関係性とは、関わろうとする運動があることで生じる現実である。言語とは断言んであり、無関係性とはその断言であり、その実在のために必要なことは関係するといった運動である。結果的に無関係さが現れるが、関係のあるなしは、関係性について問うことで、生まれる現象である。無関係といった実在は言語以前にあるのか。言葉で考えていなくとも、無関係といった物理的な現象が時空間で起こっていると考えていいのか。

 言葉で考えて無関係を規定するのではない。無関係であるといった物理的な現象が実在すると考えられるか否か。何と何が無関係なのか。無関係性があるのではない。無関係であるといった実情がある。私たちの誰もが認知していない地点にある物質と地球のある地点ある物質が相互に関わりを持っているか。持っていないと考えらそうであっても、それが事実であるかどうかは定かではない。私たちの知らないことを元に考えているのだから、関係のあるなしがわからなくて当然である。私たちは私たちの知らない物質と関係しているかもしれないし、関係してないかもしれない。

 あらゆる実在は似て非なるものである。すべてが違うとき、一個の実在は私たちにとって幻影でしかない。認識することでしか認識できない私たちは認識が私たちである。認識するから存在を受け入れることができる。存在のいかなるかはその実質とかけ離れたうえで私たちの認識の領域内にある。私たちの認識の領域内にある存在は認識以前の状況にあるのではないか。存在は認識により断片化されるが、その全体が存在である。存在の全体を私たちは認識できないが、存在はそのすべてとして実在している。私たちが認識しなければあると認知できないから私たちが認識しようとする存在はそのものであり、認識とそのもののあいだには乖離がある。私たちはそのものを知らない。認識した存在を知っている。

 すべてとは何か。私たちにとってのすべてと、世界にとってのすべては異なっている。私たちにとってのすべては世界にとってのすべての一部でしかない。世界は私たち以上にある。私たちは世界のすべてを知らない。永遠に知らない。果てしなき問いでしかない世界は永遠との関連にある。永遠は実在する。実在は永遠的である。あるのなしもない。ひたすらなる夢うつつがある。あるばかりが実在ではない。無もそれが無である限り実在である。すでにある世界を否定する無はない。あるは永遠にある。何もがない世界に私たちの残した精神がある。過去があった以上、その事実は疑いようのないことである。無に帰した世界は記憶をまるごと失ってしまうのか。物理的な実在としての有は記憶の総体である。すでに世界には物理的な次元で記憶を刻んだ事実がある。その事実が無となった世界では消え去ってしまうのか。無となっただけではないか。無となった世界には何もない。しかし、過去の記憶は無となった世界とは別種の世界にあるのではないか。世界が多世界なら、無となった世界とそうでない世界がある。どこまでいっても世界の総体を捉えられない私たちにとって、無は部分的である可能性をどうやっても排斥できない。世界の全体を把握できないのに、無が世界全体に広まっているとの認識を私たちは持ち得るだろうか。無とは全体性のことだが、部分的である可能性をつねに持っている。私たちは無を知っていても、無の全体性は知り得ない。無が世界全体に広がったか否か。世界にどれほどの問いかけをしても、出てくる解ではない。では、世界はその全体が無に帰することがあるのか。何度問うても知り得ない永遠の問いである。問いが永遠に問われるといった意味での永遠はある。私たちがいなくなれば問いは消滅するか。問いとは私たちの主観性である。私たちなき世界は私たちにとっての主観性を喪失する。ただあることのみが世界である。現にそうである世界は私たちの実存により主観化されている。世界が主観化されているのではない。私たちが私たちにより主観化されている。私たちは私たちにより規定される存在である。私たち抜きに私たちの主観性は存在しない。

 世界の存在は私たちの主観が原因である側面と、私たちの不在をもとにしても、世界は存在すると考えられる。私たちの思う世界がある一方で、私たちの思うのではない世界が厳然とある。世界とは私たちの思う世界と私たちの預かり知らない世界がひとつの世界のなかにある。現状で私たちの知っている世界がある。私たちに知られていない世界はそれでも世界である。世界は単独で、孤独な存在である。世界の外に世界はない。可能性としてあることも、想像なら実在しても、物質的な次元では存在し得ない。架空の人物は小説の中に実在する。私たちはそれがあると思うから物語を味わうことが可能である。味わったという経験のもとに考えたとき、架空の実在が物質レベルで存在することを意味するのではないか。触れ得ることはない。だからといって、実在しないことはない。触れ得ないことを私たちは明らかに知っている。太陽に触れた者はいない。太陽はそれでも実在する。見えるか否かを問うたとき、架空の人物の像は心の中にイメージとして実在する。あると思うことが存在の原因であるなら、五感で感知できなくとも、存在を認めた何もが実在する。架空であっても絶対的な存在である。疑いようがない。いかなる人物であるかについては、実在の人物であっても詳細は預かり知らないことがある。イメージである他者は、架空であろと実在であろうとイメージである。終始、他者を関知してないのは、物語においてでも、実在においてでも、変わりない。私は架空でも実在でも人物について知らないことがある。非全体的な実在は、イメージである。イメージを得たことで知ったことがある。イメージでしかないのではない。イメージなのである。

 ご飯を食べた、といった表現がいつどこで使われるかで、文脈は異なる。ご飯を食べた、は一個の物質であるが、それがただあるのではないいかなる表現も文脈が付随したうえでの存在である。ご飯を食べた、がどんな意味を持っているか。ご飯はどんなものだったか。食べた、といってもどんな風に。語はすべてがwhatであるが、そのものとはつねにいかなるかとセットである。語をつなぎあわせて文をつくったとき、それらはすべからく状況の説明になる。ご飯を食べた、といった説明である。物語っているのは何か。私たちは文を与えられた瞬間にイメージをする。イメージすることが与えられた文を理解することであるとき、私たちのなかにはそれが適切であるか否かに関わりなく、イメージがある。与えられた文の言外にある現実と同一のイメージを獲得するためには文脈との関わりの強度がある。私たちはイメージを与え合っている。齟齬があるのはイメージの違いが原因である。

 ご飯を食べた。おいしかった。という一個の表現から浮かび上がってくるイメージは、一個の表現を生んだ状況による。先にある状況をもとに生じるのが表現である。表現そのものは不動の一点であるが、点は運動の状況にある。観念的な不動の一点が実在に置き換わるとき、運動の状況のなかに投じられる。何もが情報空間にある。言語もまた情報空間における存在である。言語は情報であるが、すでに構築済みのフォーマットである。既に実在するフォーマットの使い手である人間が状況を読むことで当てはめるべき言語がある。つねに最適な言語が選ばれるとは限らない。

 情報空間の中にある言語がつねに最適化されているのではないのだから、情報空間における言語系は秩序にはない。混沌にある。現実に対してすべてが最適化されていない。まずあるはずの事実に対して、言語は不完全な対応である。言語化される以前にあるのが事実である。言語化されることで自明となる部分と不鮮明となる部分がある。言語が現実の事実に即して完全な運動をするのではない。現実はそのものとして作動する。私たちの関与は現実の一部であり、世界の全体への関与はない。箱の中に入っている万物の一部が私たちであり、私たちが知っていることも万物の一部である。

 私たちにとっての万物とは、果てしなき語りである。私たちは私たちの実在をこの世界に定めているが、どんな世界かを詳細には知らない。知らないからといっても存在し得ないのではない。知らないことの多くに含まれた実在である私たちは全く知らないひとと同居しているようなものではないか。素性を何一つとして知らないひとと一緒にいることで存在が保たれている。世界が現在のようでなくなってしまえば、即刻、私たちは存在し得ない。知ると知らないとに関わらず、存在するには存在する。知るか知らないかは私たちが知るか知らないかに過ぎない。一個の認識作用としての私たちが知っているか、知らないかが世界を決定づけるものではない。世界を世界たらしめているものとは何か。

 世界とは存在であるが、では存在するとはいかなる状況のことなのかを一口に言えるか。一口とは一つの状況として説明できるかと言ったことである。一つの状況とは一個の閉鎖系である。それ以上のない単独の状況を説明するとき、私たちが説明を完結させることはできない。そのものやそのことが自ら語ることのみである。認識する私たちは世界の真実から遅れをとっている。りんごの説明は理論ではない。そのものの運動の変動である。理論とは断片である。りんごそれ自体ではない。疑いようのないりんごがひとつある。あると認知した瞬間にそのりんごではない。どのりんごかは定かではない。とあるりんごであるが、あらゆる差異の詰め込まれた変動するりんごは次の瞬間に向かっている。りんごの未来はりんごに内在されているか。現実が現在までしかないとき、りんごに未来はない。あるのは今この瞬間のりんごである。りんごには過去がある。過去に帰属したりんごを取り出すことはできない。昨日のりんごはどこにもない。昨日のりんごを経験したりんごがある。未来を経験したりんごは存在しない。

 未来があるのは私たちの想定のうちにおいてである。私たちの精神が想定することはその想定として実在するが、想定の実在と想定した内容の実在は違う。何かを思えば、それは実在しなくても実在である。実在しないことを生み出す精神が私たちのうちにある。生み出されたものは実在し、実在しない。実在するとも、実在しないとも断言できる私たちの精神が生み出す概念は、架空である。物質としての言葉にはなった。確かにある。しかし、その物質の指示内容は実在しない。実在しないのではない。りんごがあるように実在しないだけで、りんごといった概念があるようには実在するのが架空の実在である。

 私たちにとっての言語の実在は疑いようがない。強い関わりにある。物質でもある。しかし、その言語をどれだけ眺めても、その指し示す現実は浮かび上がってこない。閉鎖系である言語とは別種の世界が実在する。言語を抱えた私たちの精神はイデアであり、実存する私たちは純粋なイデアである。私たちは私たちのことをいかに認知しているのか。私たちは確かな存在であるにも関わらず、私たちのあり様を知らないでいる。世界について知り得ないのは当然である。

 私たちとの関連で世界はある。世界は私たちにより認識されることで実在する。世界はある。私たちが不在であっても失われることはない。何かがあればそれが世界である。何もないのであれば認識主体の一切がない。関わりの一切を断ち切った何かがただひとつ実在することはあるのか。ただそれだけがある。他はない。りんごだけがあって、他には何もない時空か実在し得るか。りんごの姿である世界はりんごの成分である。一個のりんごが世界であるとき、りんご以外には何もない。何もないとしか知り得ないことが世界をりんごだけにする。可能性といった現実の中にはりんご以外がある。実在する可能性は現実との関わりにある。現実は変わっていく。可能性が実在化する可能性がある。未来を経験したことのないりんごは可能性としてのりんごである。現に存在するりんごは疑いようがないが、未来にりんごがあるかどうかは疑いでしかない。世界がなければりんごはない。世界であるりんごはりんごがなければりんご以外の何かがあるのか。りんごだけがある世界に他の何もがないことは、存在するりんごに運動がないことを意味する。りんごが運動であるとき、運動であるりんごがある。りんごがあるというよりか、運動があり、運動の姿がりんごになっていると考えられる。運動だけがある。運動が姿を変えているのが世界ではないか。

 世界があることとは運動があることである。私たちが見ているのは運動の姿である。いかにあるか。それは運動の状況のことであり、りんごがひとつあることを前提に、ひとつのりんごがいかにあるか。りんごとはりんごのいかなるかである。りんごの状況がそのりんごである。りんごであるからりんごであるのではなく、りんごとしての状況の運動の一部始終がりんごそれ自体である。りんごとは空間に記述された情報である。りんごとは呼称に過ぎない。「それ」がりんごであるのは、りんごでしかないからである。他の何かでは絶対にない。りんごはりんごでしかない。りんごであることがりんごである。りんごのままであることが他の一切を遮ったうえで実在する。りんごは他を含んだりんごであり、りんごがりんごである限り、りんごであり得ている。りんごの崩壊は他の介入により、容易に達成される。りんごをりんごたらしめる他があり、りんごをりんごでなくする他がある。りんごにとっての他はりんごであるが、りんごでなくする他はりんごを奪い去ってしまう他である。

 どれほどの時間が経過しても、りんごと交わらない粒子がないか。りんごがあって、粒子もある。同一の世界にあって、変遷もある。どれほどの変遷を経ても、関わりにない、自と他があると考えられないか。関わりにあるか否かについては考えていくとき、物質的な側面と、起こっているコトをもとに考えていくことができる。物質的には関わりのないことがあるといったとき、物質がどんなコトを内包し、他と関わりあっているのかが問われる。それがあるだけではない。何かは起こっているコトでしかない。起こっているコトが、他のコトと交わる場合とそうでない場合がある。起こってしまったコトは再現できない。起こったコトは過去になった。世界の記憶となり、動かしようがない。今現在に起こったコトのすべてが過去になる。精神によってではなく、物理的に過去に遡ることはできない。すべての過去は発見されない。動くことのないコトと接触することはできない。動くコトとしか接触できない。動くからコトは実在する。変化のないコトは消滅した。どれほど探そうとも取り出すことはできない。似て非なるものならある。そのものではない。そのことでもない。エネルギーを秘めたコトがある。

 私たちにとって、コトとは何か。コトの存在とはこの世界とって何か。この世界にコトが存在する状況は世界にとってどういった現象か。私たちがいなくても、コトはある。いろんなコトが起こるのは私たちがいるからではない。世界があるからコトが起こる。存在する何もが起こっているコトである。いかなるコトが起こっているのか。何かが起こっているから世界がある。何も起こっていない世界には何もない。秩序それ自体であるモノがなくても、起こっているコトがありさえすれば、世界は存在する。なんでもいい。起こっているコトがありさえすれば、それは世界だ。大小は問えない。あればいい。

 存在は何かがひとつあるだけでは運動しないのではないか。他の何かと反応することで世界は運動を続ける。世界と他の世界がそれぞれ運動しながら繋がる瞬間があるかもしれない。変遷している世界がどうなっていくか、それはその世界にも分からないことがある。世界の知らない未知の世界が物質として存在する可能性がある。この時空間内にはないが存在はしている世界が、運動しながら繋がり合う瞬間があるとき、その反応で世界がどうなるか、誰一人として知ることはできない。推測可能性とともに、推測不可能性がこの世界には実在する。推測不可能性はどの世界でも通じる概念ではないか。どれほどの知性でも到達できない領域がある。