その260

 性質の異なったもの同士はそれが同じ地平のうちにあっても、互いに関連しない。そのような実在がたとえば、地球といった同一の地平に存在することがありうるか。非関連的な実在が地球上にあるとは考えがたい。相互に何らかの反応を示すものばかりだ。しかし、知っていないだけで、起こっている何らかの現象が他の現象とどうやっても関わることがない。同一の場にその現象を用意しても、互いに反応し合わない。完全に同一の場にその現象が同時に実在する。そのような存在のあり方があり得るだろうか。

 たとえば、存在の面と裏があると措定して考えてみるとどうだろうか。何かであって、それは一個の存在と認めうることが、実際においては、その表と裏があり、表と裏は関係してないとき、その存在は同一の場にあっても、非関係にあるといった捉え方が新しくできないか。通じているようでいて、通じていない何かがあるとき、その現象は個別に離反し、非関連的にある。それは一個のりんごについてではない。一個のりんごは表と裏は通じている。一個のりんごのような何か。それは一個のシステムにより生じた何かだが、そのあり方において表は表として実在し、裏は裏として実在し、同一の場でそれらが離反して実在しているといったこと。そのようなことを夢想した。

 

その259

 存在の性質から考えると、存在するものは何かしらその類似にあると考えるのが妥当ではないか。存在の性質がピュシスとしてまずある。その性質をもとにできあがることでしかないとき、存在は何かしらの類似にあるより他はない。

 ピュシスを元にできあがる何かが一切の類似性を持たない可能性はない。そう言い切るための前提とは何か。ピュシスが一元的でなければならない。存在のうちにいくつもの性質をもったピュシスが実在するとき、存在は多元的にある。存在の広がりを一元的に認識し捉えたとき、そこで初めて多元的なピュシスの実在が明らかになる。多元的なピュシスの実在において、存在の広がりにはいくつもの性質をもった実在があることになる。たとえば、一括りに考えられる地球上でも、存在の性質は一元的ではなく、その実質において多元的であれば、地球上であっても、類似するものと、そうでない、完全に異質のものがともにあることになる。であれば、地球上にその大元を辿れば、異なっているものが一個の地球内にあることになる。

その258

 論理が捉える存在の仕方について、その運動はその関係にない。論理が捉えた存在の仕方とはそのシシテムであり、その運動は別の話となる。システムはそれでも動く。動かないシステムは存在しない。いかに動くかの流れがシステムとして捉えられたのだ。細部は放っておくことでシステムとして、存在の流れが実在する。それは精神のうちにあることであり、実質的には、その構造はシステムの外にある。論理的に話がなされたとき、それがそのままその存在のすべてを物語るのではない。では、何が捉えられ、捉えられていないのか。システムとして捉えられる運動がある以前に、その変容が続いていく運動がある。あらゆる瞬間は異なっている。すべての違いのなかに見出されるシステムとは何か。それは構造だが、変わりゆく構造だ。変わりゆく構造がなぜ論理で捉えられ、さまざまにあてはまるのか。

 同一ではないはずの存在の移ろいに対して、それでもあてはめることのできる概観がある。存在の実質においてあるのではなく、私たちの精神のうちにある。いや、私たちの精神のうちにだけあるわけではない。存在するものごとの実質において、概形がある。おおよその同一さがある。おおよそ同一であるものは完全に同一ではない。完全に同一であることが実在することはない。おおよそ同一であるとはどんな意味か。それはりんごが何度もりんごとして実在することではないか。あらゆるりんごは異なるが、おおよそ同一のりんごである。

 いくつもの個別性により埋め尽くされている存在のうちに、単独の何か、つまり、それだけしかなく、おおよそ同一である他を持たない何かが実在することはあるのか。一切のコピーを持たない何かが確かに実在することはあるのか。すべては異なっているが、相互に類似した何かがある。何一つとして類似しない、そのことだけが、この存在のうちで極めて純粋にただ一個、実在することはあるのか。いくつもあるりんごではない。それはりんごだが、存在のどこを探しても類似したものが見当たらない。そういったりんごのような何かがあると考えられるのか。この世にただひとつだけのりんごがあるのではなく、りんごといった実在がただひとつだけあることがありうるのか。あらゆる類似性を拒絶した何か。それは存在可能だろうか。

その257

 認識は言語に置き換わることで、その対象となったこととどこまで整合的か。言語の限界を超えることのできない認識は言語内存在である。存在は言語を超えた姿であるはずであり、存在はすべからく、その本来においては言語外存在である。言語のうちに閉じられた存在は存在しない。言語に置き換わった存在は、その言語の機能においては、ある完全さにある。それは論理的に完結していることもあるだろうが、それゆえに、対象となった存在がそのように完結しているのではない。言語が論理的に構築されるからといって、そのまま存在が論理的にあるわけではない。存在は言語の論理に整合的な側面があるかもしれないが、それですべてではない。言語の論理性は存在において部分的に真である。言語を論理的に構築したとき、そのすべてが存在に適合することがあるとしても、それが対象のすべてを捉えたのではないとき、言語の論理に沿った存在の仕方とは何か。存在が言語内にあるときの存在にはどんな意味があるのか。そもそもにおいて、存在は言語の論理にのっとって実在するのではない。存在が言語の論理に適合する性質があるのは、偶然ではないか。言語には論理が発生し、その論理の枠組みを用いることで、存在の仕方を表すことができる。存在の仕方を表すために言語の論理があるのではない。言語の論理に従って存在ができあがっているのではない。存在の仕方のうちで言語の論理にそう部分がある。それは偶然ではないか。

 言語のあるなしに関わらず、存在するものはそう存在する。そう存在する存在が言語の論理により、新たに構築されることはある。そのようにしてあるが、それは存在が言語の論理にそった形で構築されるようできているのではない。言語で論理を作り上げていったとき、偶然にもそう部分があるといったほうが現実的なのではないか。

その256

 客観もまた、認識主体がもつ枠組みに依存したもので、枠組み自体が主観的であるのだから、客観もまた主観であると言うより他はない。普遍であるとしても、それは認識主体の生きる認識のうちにおいてのことである。

 理解可能性をもとに現実が決定されていく側面がある。どう世界を捉えるかは、理解可能性による。理解できる仕方でしか世界を捉えることができない以上、世界は認識主体にとって、一面的でしかない。認識主体の数だけ実在する面がある。いくつもの面がそれぞれの認識をもとにしてある。それらの面は世界内において確かに実在する。いかに認識したかが、認識しようとする世界のうちに含まれている。認識しようとする世界のなかに含まれる認識は、認識でありつつも、世界のうちに含まれ、認識そのものに影響を与える現象である。

 認識することそのことが存在の広がりにおける運動の一部である。認識だけが存在の外にあるのではない。存在のうちにある認識はりんごが一個あることと同列にある。いかなる認識があるかは、いかなるりんごがあるかである。いかなるりんごがあるかは、いかなる認識があるかである。

 認識は他の存在との関連のうちにあり、それはりんごが他の存在の関連のうちにあることと同列にある。一つの認識が存在することと、ひとつのりんごが存在することには、他の存在の関わりがいくつもある。

 

 

その255

 1とは何か。存在の根源か。何かがあるためには、1が起因せずには、その実在は不可能か。何かとはつまり、具体である。1といった確実さがなければ、何一つとして具体はない。無ではないが、その具体のない存在の広がりにおいて、あるのはひたすらなるカオスである。カオスだけがあるのではない現在の存在の広がりにおいて、いくつも1がある。つまり、具体がいくつもある。1は1であることで1である。1が1であるためには1であるために必要な数の世界がある。数の世界があることで1がある。数の世界とは具体の世界のことでもある。具体の世界があるから何かがある。何かがあるのは、存在の広がりが有限だからではないか。切り分けられてある何かがあるのは、切り分けられるための力がある。切り分けるための力が働くことで、何かがある。存在するだけなら、何か具体がなくても可能かもしれない。認識しようのない、何かではない存在が実在することがある。いや、それは可能ではない。存在すれば、それが姿を持たないとしても何かではある。つまり具体である。しかし、それが1でないかもしれない。1ではないが、存在している何かとはいかなる実在か。ゼロではないが1でもない存在はひたすらなる不定形であり、それはつまりひたすらなる運動のことか。エネルギーのことか。エネルギーの流れだけがあるとき、存在の広がりにおいて一切の姿がない。認識主体が不在でも、そのあり方の変わりはない。認識主体による認識は存在の姿をどこまではっきりと捉えているのか。認識主観性から逃れられる認識は実在するだろうか。いかなる認識もそれが認識である限り、それは主観的であるはずだ。

 客観的な認識もまた主観的である。確かに好き嫌いで判断したうえでの認識ではないとしても、認識はそれがいかなるものであっても、その主体の機能に依存しているので、主観的である。主体のない認識は実在しない以上、認識はそれがいかなるものであっても主体依存的であり、主体依存的な認識は主観的である。

その254

 起こったことはその決定にある。起こったことから明らかになっていく。起こったこととは何か。結果的にそうしたことが起こったことの意味とは何か。その過去において、起こったことの原因があったのか。蛇口を捻って水がでたとき、水がでるまえに蛇口がひねられる。ひねられた蛇口にでてきた水の原因がある。では、太陽がその姿を変えていくとき、何がその原因なのか。原因にその全体性はあるのか。所詮が認識内において把握される。把握されることはすべてが認識内においてである。原因の全体性はそれが把握されたとしても、認識内においてであることになる。しかし、認識外にも把握されていない原因が潜んでいる可能性がある。そのとき、あることの原因はその全体性を認識内に完全にもつことはできるのか。全体性とはつねに幻影的であり、さらなる拡張の可能性にある。すべてが否か。それが常に問われている。それに答え切ることはできない。全体は全体であるかもしれないが、さらなる拡張にあるかもしれない。そのいずれであるかを定めることはできない。

 どんなことを認識しているのかにおいて、さらに問われるのが、その認識していることの範囲である。どこまで認識しているのか。認識の途上にあるとき、その認識はさらなる拡張にあるが、認識が完全であるなら、その拡張にはない。完全か否かの判断をいかになすことが可能か。はたして、完結した認識は実在するのか。つねに何かを求めているのが認識のあり方ではないか。認識されたことは更なる意味を求めている。更なる意味との接続を求めて存在する認識に終わりはあるのか。変化にある存在のうちにある認識がつねに途上でしかないのは、存在の運動の渦中にあるからだ。存在の運動の中で認識はいかに実在することが適当なのか。

 多に対して1がある。1を認識の現象が発生するための主体としたとき、その認識対象は多である。多に対して一つの主体が生じることで存在において認識といった現象が発生する。多とはその全体を持たない幻影か。認識の基軸に対する存在の多性はその全体を持ち得るだろうか。多性とは幾層にも折り重なった実在である。そのうちにある、ある全体性とはある認識における基軸を定めることで生じる。認識主体はそれぞれの個物に宿る。個物がそれぞれあることは認識主体を意味する。ただそれぞれにある個物は、存在における認識主体である。と同時に認識対象である。1である認識主体は同時に、多のうちにある認識対象である。存在はその全体としては多である。多のうちにそれぞれ1が認識主体としてある。そのときなされる認識とは、その外部においてばかりではいけない。認識主体が認識しようとする多のうちでいかにあるか、その関係性も認識に関わってくる。認識とは認識主体を空としたうえで認識されなければならないのではないか。1としての確実さのうえに、かつ、その実質を空としたうえで、何かしらを認識する。そうしたとき、認識とは何か。いかなることが認識されていくのか。認識はなぜ何かを基軸に据えないと行えないのか。存在を俯瞰したとき、ある領域を認識しようとすれば、ある基軸を定めることになるのか。空を基軸にした認識は可能なのか。認識はある機能をもとにすることでしか実在できないのか。その機能は空とならない。空ではない認識はやはり1である。