その253

 起こっていることのすべてが自然であっても、それらすべてが必然として起こっているのではない。必然とは何か。必ずそうなることか。であれば、必然に込められた意味には、私たちの推論がある。その初めにおいて、すべてが明白ではない世界を生きるうえで、推論をしていくことになる。推論をしていくことで、必ずそうなることがあり、必ずそうならないことがある。しかし、起こっていることのすべてがそうした必然にあるか。その初めに推論があるのであり、その推論に対して、必然かどうかを判断するのであり、最初からすべてが必然に起こるというのではない。起こるべくことが起こっているのではない。起こっていることが起こっている。起こっていることのうちには、推論に反したことがある。反したことである以前に、推論されていないことが起こることがある。起こっていることは必然としてのことであれば、推論に対して予期することのなかった偶然として、起こっていることがある。現実はすべての起こっていることを踏まえているが、すべての起こっていることがすべて予期されたこととして起こっているのではない。すべては必然として起こっているのではない。起こることが起こっている。起こることが起こることで現実が出来上がっていくのだが、それらすべてが起こるべくして起こったのか、それははっきりとしない。起こるべくして起こるとするなら、存在するものごとのすべてを予め推論する必要があるが、それがなされることはあり得ない。個別に何かの推論があり、それが起こるかどうかについては明確な解があるかもしれないが、すべてというすべてが推論されることがない以上、すべてが必然として起こっているとは絶対に言い切ることはできない。

その252

 あることがそのようにしてあることに対して、それをしらないからといっても、そのあり方自体に変わりはない。何かを知ることで、存在に対して働きかけをすることが考えられ、それゆえに、何かしらの知は存在それ自体であり、かつ、物質レベルで働き掛けをすることから、自然の現象の一端ではないかと考えられる。拭き抜ける風により、その場の状況は永享をうけるが、そのようにして、発せられた言葉がその場のあり方を変えることがある。その時は微弱な影響しかなかった言葉が、ときを経て、多大なる影響を物質レベルで与えることがあるとき、それは、たとえば、巨大な台風がその場へ影響を与えたかのような状況にある。

 何かしらを考え、言葉に置き換えられたとき、その結果が物質に置き換わることがある。議論の末に構築される建物や街並みがある。それは、風が吹いて起こったできごとのようで、自然の現象と考えることができないか。

自然とは何か。人間が言葉を用いることは自然ではないか。人間の行っていることのどこかに不自然なことがあるのか。人間とは生命であり、自然である。もともと自然の中になかった何かを作りだしたことが人工物と呼ばれ、自然に反するように捉えられることがあるが、自然にあるものと、そうでないものはいったいどうやって区分けすることが可能か。自動車はその物質としては自然ではないかもしれないが、自動車の存在は人間の自然の営みの一端として実在するようになったと考えることは可能ではないか。人間の行っていることのどれかが自然で、どれかが不自然だと決定することはできるのか。

 不自然とは何か。自然と反することが起こっているだろうか。自然と反することが実在するだろうか。自然と反することが起こっている中で生きていくことがあり得るのか。起こっていることはすべてが自然的なのではないか。不自然なことは起こり得ないのではないか。起こったことは起こったこととして、それを自然と認めることで人間はその先に進んできたのではないか。これからもそういった風に起こったことを自然に捉えて、その営みを送っていくのではないか。それ以外に、営みの送り方があり得るだろうか。

 

その251

 それが正しければ真理であり、かつ、それがどうあろうと、存在がそのままそのようにあること自体、それは疑いようのないことであり、存在即真理であると言えないか。存在即真理とは、何かがそこにあることが真理を物語っているといった意味であり、それは言葉になる以前の状況でもある。言葉の姿で実在する真理とともに、非言語でも、それがそのようにあることは、仮に誰にも知られていないとしても、それは間違いのないことであり、真理である。存在の一切がそのようにしてあることに対して、何か疑いを挟むことはできない。あらゆる疑念とは関係のないところで、存在はそのすべてが絶対肯定された姿である。その姿は真理である。

その250

 真理であることとは何か。絶対の真理であることとは、絶対である以前に、問いなのか。問いとしてしか真理は存在しないのか。かくかくしかじかが真理であるといった断言が一切の問いを受け付けないことはあるのか。つねに真理は問いと向き合ったうえで実在するのか。あらゆる問いに対してまっとうな答えが用意されれば、それはすべて真理なのか。真理とはつまり、部分的に真であることを意味するのではないか。部分的に真である真理が存在することが真であり、存在の全体にあてはまる真理は、その不在をもってして真理とするのか。

 存在し、それがいかにあるかについて言葉を用意することでそれが真理である可能性をもつが、存在することなく、それがないことにおいて、そのなさについてもまたそれが真理であると述べることはできる。真理であるか否かとは、言葉になって表現されるか否かである側面をもつが、言葉にならない真理もまた実在する可能性にある。起こっていることは起こっている。それが確かにそのように起こっているとき、それは確かなことであり、まぎれもない事実であり、それを真理と呼んでも差し支えない。であるとき、存在することにおいて起こっていることのすべてが真理であるといえる。真理として実在するから、何かがあるのではないか。存在歯その存在していることのすべてが真理である。何か一つの普遍を求めることが真理の意味ばかりではない。りんごが一個テーブルのうえにあることもまた真理である。そのすべては言葉にならないが、むろん、その言葉になりきらないこともまた真理であり、ただ何かがそこにその姿で実在することが物語ることは、何かを言葉で捉えて述べること以前においてすでに真理である。存在はそのピュシスにおいてすべて明らかになっている。ピュシスとはそのすべてが真理のことである。

 存在することともに、存在しないこともまた認識することのできる私たちの実在におけるその精神が所有する状況もまた真理である。ありとあらゆるものごとを含んだのがピュシスであり、それらすべて、存在すること、存在しないこと、私たちのみならず、生き物がそれぞれ持つ精神のうちにあるイデアもまた、ピュシスである。ただあることを指すのではない。イデアとして考えられた物事は確かに実在するのであり、存在のうちにある。決定的に存在しない何かもまた、それが不在であることをなんらかの精神をもとに発見されているなら、それはその事実としてある。あらゆる幻はそれがイメージとして捉えられているなら、実在のものと考えられる。ピュシスの意味するところが、ありのままの状態であるとうとき、ありのままにある状況とはたんに何もかもを含むのであり、そこではあらゆる否定は不在を意味しない。否定もまたありのままの状況における実在である。否定を含まないありのままは実在しない。ありのままあることは、存在する物事がいかなる姿であろうと、それらすべてをそのまま受け入れる立場であり、それ以外に、ありのままの意味するところはない。完全なるピュシスとはあらゆるものごとを含み込んだうえで、それらすべてを真理とする態度のうちにある。あらゆるものごとを受け入れ思考する精神にこそ真理が宿るのではないか。

その249

 目の前にあるりんごはどこまで具体だろうか。具体的に一個あるりんごが具体的ならその実質が明らかにならないと、ロゴスでその具体を捉えたことにはならないが、ロゴスでどこまで一個のりんごを捉えることができるか。何が明らかとなって、そのりんごだろうか。

 りんごはそのりんごの領域を携えて実在している。りんごの全体とはその領域のことである。そのりんごがそのりんごであるためには、そのりんごであるために必要な場がある。その場が実在するために、存在が現にある状況において、そのすべてではなく、部分としてその関係にある。存在における部分としてあるはずのりんごの領域は、存在をその流れとしたうえで捉えたときに実在すると考えられる。その流れとは、まさにいま起こっていることのうちにある。まさにいま起こっていることがある。そのうちにあるりんごがいかなるものか、それはそのりんごがその実在として語るより他、その存在を明らかにすることはできないのではないか。そのりんごの領域もまた、ロゴスて解明されていくとしても、限度がある。りんごの領域はつねに実在しているのであり、それは今この瞬間にも動き続けている。いかなる関係性のネットワークがあるか、それは明らかにするまえにすでに出揃っている。出揃っている何かを確認していくことが明らかにすることである。初めから明らかなことを明らかにするのであり、どこかで正確に捉えることができるか。そして、捉えたことが確かか。その確証を得るためにできうることは何か。絶対の真理があるとするとき、それはいかに証明され得るのか。s

その248

 起こっていることがあると捉えるためには、起こっていることが限定されなければならないのではないか。認識とはその限定によるのではないか。限定することで認識を獲得することができるのではないか。何が起こっているのかを具体的に把握するためには、何かにフォーカスする必要がある。その具体は、フォーカスすることで生じるが、存在の流れのうちにある万物はその関係性のうちにある。具体とは何か。一個の具体はそれのみにあらず。関係性のベールがかかったうえで存在する一個の具体は、抽象的であるはずだ。

 存在の流れのうちから、その象を抽いた存在とは、認識上のものではないか。認識上にある具体は、存在の流れのなかから、その象を抽きとったことで現前するのだが、それそのものは関係性のベールがかかった状況にあり、そのものの有様は具体といっても不完全でしかない。抽象に対して具体といったとき、その有様ははっきりとした感があるかもしれないが、何かを具体的に捉えたからといっても、それは抽象の粋をでることはない。はっきりとそれそのものの有り様が炙り出されることはない。どこまでいっても、私たちの認識は抽象的でしかない。具体的に考えていけばやがては抽象的になる。具体的だと信じていることがむしろ、抽象的な発想と考えられないか。

 

その247

 認識を基軸におけば、起こっていることに順番ができる。これが起こったあとに、あれが起こると把握することができる。しかし、存在の動きのあらゆる姿をもとにしたとき、その次元において決まった順番があるといえるのか。順番があるかないかとはつまり、その反復があるかどうかのことか。存在の動きにおいて定型的な動きがあるとき、そこにはまぎれもなく順番があるといえる。科学的な事実、たとえば、水を冷たいところにおけば氷になることは、なんどでも繰り返し起こる。その起こっている状況についてはその定型にあるといえ、それは順番があることを意味しているのか。順番があるなら、その反復が存在することだけでいいのか。反復はするが、そもそも、存在の一切が反復するわけではない。存在はそのカオスにあるのではないか。反復の現象もまた、その細部においては違いがあり、起こることは一度しか起こっていないと考えられる。純粋な三角形が存在しないように、反復もまたその純粋さを持たない。大枠では同一だが、それぞれ細かく異なっている。そうしたとき、起こっていることには順番があるのか。存在の反復性においては、定型的なものごとの起こり方があり、そこには定型的な順番があるのかもしれない。いや、反復するのだから、起こることには定型的な順番があるとしないと、落ち着かない。科学的な事実において、それが起こるには、存在がそのように振る舞わないといけない。順番をきっちりと守ることがその存在の反復を意味する。しかし、科学的な事実は私たちの認識内存在である。存在はつねに認識内にあるのではないか。思う以上に複雑な連関にある可能性にある存在において、その起こっていることに順番があるかないかを考えるとき、存在がどのようなからくりで起こっているのか、その全貌を把握することなく、順番のあるなしを決めることはできない。何が起こっているのか、それがはっきりとしないうちには、存在に順番があるかないかを決めることできない。であるとき、存在を認識する限り、その状況はカオスにあるというより他はない。カオスには順番がないのではないか。