その265

 現実はどれほど言葉によって決定されるのか。言葉が確かに現実を捉え、その意味を言語空間のなかに表現する。それをやっているのは人間であり、人間はみずからが生み出す言語空間との関わりにある。関わりにあるというよりか、その存在自体が言語空間内における。むろん、言語空間内にのみ実在するのではない。言語空間と非言語空間を行ったり来たりしていると言いたくもなるが、否、言語空間にいながらも全く同時に非言語空間にいる。言語は言語空間のみに属するのではないのではないか。非言語空間を含んだ言語こそが言語のあり方ではないか。言語だけしかない空間は存在しないのではないか。それゆえ、言語空間だけがあることはない。単一観念はそれ自体がその単一性として実在するようでいて、存在は常にその関係性にあるのであり、存在する何かとはつねに複合観念である。単独で何かがあっても、それは複合的な実在なのではないか。一個のりんごが複合的であるように、りんごといった観念もまたその意味は複合的である。いかなる観念も複合的な意味を内在するのではないか。