その561

 何かであるといったことは、そうした現象それ自体であるといったことだ。そうした現象がなぜそのように起こっているかとなれば、まず先にあるのがその何かの外部か。外部環境が適切でないとき、その何かは実在できない。なぜ氷が氷であるか。それは温度といった現象のもとにある。適切な温度でなければ、氷であることはできない。氷であるために必要な要素はあるが、その要素が揃っても、それが氷となるかは、その外部環境による。要素が揃えば、氷となるわけではない。そのとき、何かとは、その内部と外部の両面によってできあがっているが、まず先にあるのは外部環境ではないか。いや、いくら氷に適切な温度であっても、その要素がなければ氷は発生しない。むろん、要素がいかに現象するか、それは外部環境に依存している。つまりそれは、外部と内部が同一的な意味を示しているのか。何かとしてある何かの内部と外部がその両方において同時的な原因であるとき、何かの外部と内部は一にして他はない。何かは世界を限定したうえで実在する。何かは世界の何を限定するのか。それは何かであるための要因のすべてではないか。何かが何かである要因は何かの内部と外部にある。では、何かの外部のすべてが要因か。否、何かが何かであることのできる状況のみが何かが実存可能な要因である。そうでなければ、何かにとっての外部といった個別性が実在し得ない。環境依存的なすべての何かは、その依存する外部は世界の断片でしかない。断片的環境によって何かの内部が稼働している。何かに対する外部はそのすべてが断片的だ。それゆえに意味がある。外部がすべて同一の性質であれば、何かの原因が外部にあるとはいえない。