その555

 物質それ自体が空間であり、物質である空間は時間の経過の運動により変化していく。時間の経過といったことがエネルギーになり、物質は変化していく。なぜ物質は変化していくのか。その原因のひとつに時間の経過がある。時間の経過が物質を変化させていくことの意味とは、物質が時間といったエネルギーにより変化していくことを意味する。変化をもたらすことすべてがエネルギーではないか。そのうちの一つに時間があげられる。

 あるいは、変化それ自体がエネルギーと考えられる。変化する物質それ自体がエネルギーであり、その変化がまたエネルギーによって行われることの意味とは、何かがあれば、そのうちに変化をもたらす原因がその根源にあるのではないか。まずもって、自らを自らで動かす力が備わっている。その運動は内的であって、外部とはいっさい関わりを持たない。まずもって、ひたすらに内的な循環をする運動がそれぞれ個別に、構造のひとつひとつに内包されてあるのではないか。それ故に、構造が構造でありえる。何かが構造化していくための力がなければ構造化しないのではないか。何かが構造化するための力がまずもってある。ある構造がその構造であるのは、その組み合わせにより生じるアプリオリな現象だ。構造のあり方それ自体はアプリオリに決定づけられている。しかし、構造それ自体の実在は、そのすべてが何かの力によるのではないか。ただひたすらに関係性が生じることで構造が生まれるのだろうか。相互反応だけが構造を生む原因だろうか。構造で満たされている世界には構造を生む力のようなものかことがあるのではないか。世界に構造をもたらしている力とはどのような力だろうか。何かと何か…が集まったとき、ただそれだけで構造ができあがるのではない。構造をつくる力とは、他と関係を断ち切る純粋にない的な力ではないか。万物で埋め尽くされた世界には無数の境界がある。境界の内と外を隔てる力があることで構造が生じるのではないか。何気なくできあがったコーヒーカップであっても、それ自体として実在するために、閉鎖力が働いているのではないか。閉鎖することで外部と切断される。それゆえに、コーヒーカップはある。それは自然にある力だ。何気ない、コーヒーカップを作る素材がその自然、閉鎖的なのではないか。それゆえに、構造が生み出されているのではないか。