その277

 1分前の世界に触れることはできない。今触れているコップは今あるコップであり、つねに今あるコップを持っている。10秒前のコップではない。今あるコップしか手に持つことはできない。持っているコップは昨日もあった。そのコップに関わった昨日の全てがそのコップに刻まれている。その上で今あるコップである。コップはいつのものかといえば、つねに今のものである。今のコップは過去によって作られている。今現在においてもその変化にある。変動するいまがある。存在はその運動であり、運動をすることが原因となってコップがある。コップはそれ自体が運動するエネルギーである。運動するエネルギーが、とある姿をもったうえでのコップである。コップであるためになされている意味的循環がある。閉じた系として、意味の循環が起こっている。存在はそのすべてに意味があるが、意味のつながりが動的な循環をしながら、コップをコップたらしめている。

 コップはそれがあるところにある。どこかそこにしかない。それがいかなるものか、認識しようとするのであれば、その痕跡である過去もその関わりにあるが、過去はその物質としてはすでに消え去っている。確かにあった過去はその物質であった。その物質であったことが現在のコップの原因である。それがカップであったときから、そのコップの物質性は始まっている。いまだ存在しないものの萌芽がそれでもあるのか。現にないもの。認識され得ないものがそれでもその始まりの予兆として現にいまにおいてあるのか。それは認識されないのだから、どうやろうともわからない。わからないがその可能性があるのであれば、それはあるのかもしれない。かもしれないことは現実性を帯びて実在するが、その物質として認識され得ないことから、可能性の域をでることはない。物質レベルで確認されたことから認識に置き換わっていくのではないか。可能性とは精神のうちに言語で考えられたことであり、ありえるかもしれないことは一ヶ月後の物質的現象を現在における物質的現象から推論される。しかし、存在は結局のところ、起こったことから明らかになっていく。起こったことそれ自体が物質レベルで確認されたことから事実になっていく。可能性を可能性の枠内で考えることもまた言語化され、その意味においては事実であるが、認識され得ない。その存在を確認できるか否か。それは言葉だけがそうあったのではならない。言葉ではなく、物質が確認されて初めて認識に置き換わる。それがあると認め得る。あるのはつねに現在においてのことであり、認識されるのは現在における物事しかない。昨日みた空をそのまま再現することはできない。昨日見た空はイメージに過ぎない。そのイメージをそのままどうやって再現できるだろうか。脳髄がその時捉えていた空をそのまま再現するためには、そのときの脳髄で起こっていることをそのまま再現する必要がある。できないはずだ。