その406

 神は妄想なのか、実在なのか。実際に神が現れたことは一度としてないのか。いや、神に出会ったことがあるひとが知らないだけでいるのか。しかしそれでもその出会った神が実際に神であった証拠はどうやって明らかになるのか。

 存在それ自体、生きていることがあまりにも不思議であることそれ自体が神といったあまりにも不思議な実在を概念的に生み出したのではないか。脳が生み出した現実を生きているといっても過言ではないとき、神もまた脳が産んだ幻想であり、不思議に感じる心が途端に飛躍して、ありもしない何かを拵えた。そういった可能性がつねにあるのは、神には出会えないからだ。出会ったといった思いがあっても、それを証明できないとき、私たちは神の実在について永劫的に明らかにできない立場にある。分かることは増えていく一方でどうやっても分からないことがあり続けるのは、私たちが妄想によりさまざまな概念を生んでしまうことがかえって原因になっていないか。

 あるかないか。その実際をもとに現実をとらえたとき、神はいるのかどうかわからないがどうしていると想うことになっているのか。その感性により神はどうしてかいるような感じがしてならない。そういった実感がある。そんな思いが捨てきれないことが神を人間社会に実在させているのではないか。人間社会にはさまざまに実在することがあるが、こととしてなら実在しても、それが物質的にものとして実在するかどうかはわからない。ことがあってもものはない。そういった現実を生きているのではないか。

 作り話に感動して泣くことがある私たちはそれ故に確かに妄想的であるわけだが、妄想は妄想として、そのすべてが正しいわけではないはずだ。妄想されたことがあっても、それがものとして実在するかどうかは定かではない。こととしてあっても、ものとしてあるかどうか。神もまたことに過ぎないかもしれない。ものとしての神はあらゆる細部に宿っているとかいないとか。存在そのものがつまりは神により投影された真実だといった見方もまた妄想のなせるわざで、その確証はない。いつになっても確証が取れないことをどうやって現実とし受け入れるのか。思い込みの次元で、それを現実としていいのだろうか。分からないことはわからないまま、保留する態度が極めて重要ではないだろうか。