その386

 時間はそれがあるからといっても、それがいかにあるか、つねに運動しているものを止めて捕らえることができない以上、時間は認識の中に完全に収まることはない。だからといって存在しないというのではない。存在するが認識しきれない。それが時間と私たちの関係ではないか。

 動いているものを動いているままに捉えようとするとき、その運動は言葉や数値に置き換わりえない。おおよそなら数値になるだろう。しかし、厳密に時間がどのような運動にあるか、それ自体を何か他のことに置き換え切ることはできないはずだ。それはあるいは、言葉や数値に置き換えることとは運動を止めることを意味するからではないか。いずれであるか、そのあいだに事実があるとしても、あいだにある事実、その広がりを言葉や数値におきかえることはできないのではないか。言葉や数値に置き換わった部分を明白に知っていると感じる。それは確かにそうなるが、厳密にはそれは不完全な事実なのではないか。完全な事実は知りえない。あいまいな運動をあいまいなまま捕らえることができるだろうか。