その284

 事実とは起こったことであり、たとえば、何かしら思ったことでもある。思うのは自由で何を思ってもよい。思ったことのすべてが真実というのではない。つまり、事実はすべて真実ではないのであり、真実とはまさに本当のことではならないのであって、それは存在がその通りにあることを意味する。思ったとしても、存在がその通りにないとき、思ったことは真実ではない。

 認識主体がいないのであれば、起こっていることのすべてが真実となる。認識主体があることで、真実があり、そうでないことがある。起こっていることのすべてがそのまま真実であると考えることができても、認識主体のうちにあるできごとにおいて起こっていることのなかに、それが起こったことは真実であっても、存在のあり方についての認識について、その通りではないことがある。思ったことは事実だが、その中身が存在のあり方にそぐわないといった現象が起こる。そういった現象が起こっていることは事実だとしても、その現象が差し締めそうとすることが存在のあり方と合致しない。あれは aだと思っても、それはaでないとき、aだと思ったことは真実だが、aではないことにおいては真実ではない。aだと思ったことがそのままaであれば、aだと思ったことと、それが実際にaであることは同時に真実である。こうして、思ったことはつねにそれが真実かどうか、その検証にある。何かを思う人間はその精神をもち、そのなかでは様々な運動が起こっている。精神の中でどんな運動が起こっていようが、それがそのように起こっていることにおいては紛れもない真実である。しかし、精神の中で起こっている思惟活動とは存在について行われているのであり、その判断がすべて正しいのではない。思ったことそのことの意味はさておき、そう思ったという事実は真実である。思ったことが内包する意味は、存在のあり方と整合して真実となる。いや、真実になるのではなく、真実であるのである。私たちはその精神の活動により、つねに真実を思うことはできない。精神のなかに真実と虚偽がある。存在に照らし合わせたとき、真実であることと、真実でないことがある。アウトプットされた言葉の意味が存在のあり方そのままであるときと、存在のあり方と一切整合しないときがある。存在のあり方と一切の整合をしない言葉とは何か。そこにあることはそれ自体として事実だが、その意味するところが存在に合わない。存在に合わない言葉はそこにただあるだけで、その意味する内容がどこにもないのであり、その言葉は虚無的ですらあるが、完全なる虚無ではない。どんな言葉も誰かによって精査されるはずだ。その意味では存在と整合しないことが判明した言葉は結果的に虚無になるかもしれないが、その精査の過程においては有意味であったことになる。あるいは、虚無的に思われていた言葉も時の経過を経ることで翻って、真実だったと考えられることもある。その可能性をどこで捨てることができるだろうか。