その347

 いつのことなのか、それをおおよそ定義したとき、何かがどうであるかはいつのことなのかによって規定されていると考えることができる。そうであるのはそういった性質にある世界だからで、時が経てば、世界の根本性質のようなものが変わる可能性がある。現にある世界はひとつの閉鎖系であり、そこに流れている時間の質が何かをきっかけにまったく別種のものとなる可能性がないだろうか。どんな性質をもった世界のなかを時間が流れているのか。時間の質がまったく別の種になったとき、そこでは現在起こっているようなことは一切起こらないのではないか。それは時間の質によるといったん考えてみたい。時間の質とは存在を流れる運動の質のようなものではないか。どんな世界になっても運動がなければ、そこには何も存在し得ないと考えられる。運動こそが普遍の実在なのではないか。いくら性質が異なる世界がこの先現れるとしても、運動はやはりあるのではないか。動かなければ何も存在し得ない。動きを持たない何かが存在し得るとは考え難い。動きとは流れであり、流れとは時間的なるものではないか。時間的なるものは一元的でないのであれば、多元的な時間の流れのうちにあるのが現在の流れであり、その質が存在の性質を決定づけているのではないか。あらゆる現象は質的差異をもつ。質的差異によって生じている存在のうちで現在の質をもった世界に私たちは生きている。それは流れに依存しているのであり、流れとは何の流れなのかとなったときに、その終局においては時間の流れではないか。時間の何が存在を規定しているのか。存在するものはそのすべてに根底にエネルギーがある。エネルギーが姿を変えて時間になっていると考えたとき、エネルギーとしての時間とは何か。運動としての時間と考えられないか。運動とはエネルギーであり、それは流れていくのだが、存在が動いて流れるためにはそれを制御する力がいる。それを行なっているのが時間ではないか。