その279

 なぜ動くのか。なぜ動かないのではなく、動くのか。そこにあるものがそこにあるだけで動いているのは、存在がそれ自体、運動する物質であるからだ。うごかないものはない。うごかないものは存在し得ない。動くからあるのではなく、動くためのエネルギーが存在を満たしているから、何かがある。あるのはまずエネルギーであり、エネルギーが姿を変えたものがそれぞれの物質である。ではなぜエネルギーがあるのか。存在とはその意味のことではないか。意味が姿を変えたものがエネルギーではないか。では意味とは何か。何かが存在するときの根源的な原因であると言えるが、なぜ何もないのではなく、何かしらの意味があるのか。意味が全くなくなったとき、そこは完全なる無といえる。無ももちろん意味の一つだが、そこを問うてしまえば、それこそ話が無になる。有の側から無について語るとき、その語りはいかに語ろうと有となる。それゆえに、有の側から無は語れない。いや、無は語られるものではない。何もないことを語ろうとしても何かしらの意味づけになる。意味づけされた時点でそれは無ではない。無は一切の意味を拒絶する。いや、拒絶もしてないはずだ。拒絶するかいなかは、有の側の原理であり、無とはただひたすら何もない。意味の一つもないだけではないのかもしれない。何かがないというのではなく、何もない。