その269

 関係のない何かがある。存在する何もがその関連にあるのではないのではないか。何かに焦点を絞ったとき、その何かに関与していることがいくつもあるのだろうが、存在の地平には、関わり合っている状況と関わり合っていない状況が同時にあるのではないか。あるりんごがテーブルの上にある。そのりんごの実在にとって意味のある何かがありつつも、そのりんごにとって意味のない何かが存在の地平にある。意味のあることと意味のないことが同一の地平にあると考えられるのは、何かそれ自体に着目するからではないか。何かを認識しようとするから関係のあるなしが生じるのではないか。認識の一切を放棄したとき、そこで起こることは何か。認識といった形式を設定することがもたらす存在の関係性とは別の存在のあり方がそこにはあるのではないか。いかにあるか、それは認識しようとしないから、明らかではないのか。それとも、認識しようとしなくとも、そのあり方が理解されるのか。そんなはずなない。認識の行為が実在しないところに理解はない。そのとき、その理解は形式的に為らざるをえないのではないか。形式添った認識しか実在しないとき、非形式的な実在は、それが存在しているかもしれないとしても、理解されない。存在のあり方を筋道を立てて理解することでしか、理解とならないとき、私たちが知りうるのは、存在のおける筋道であり、筋道のない存在の仕方は理解されない。存在がいかにあるか、それは認識のうちにあることばかりではないのかもしれないが、認識の外にでることができない私たちは私たちの認識の機能の内側で認識を行うしかない。認識の内側で行われた認識はその内側に閉ざされている。存在の圧倒的な広がりに対して行われる認識はその認識の内側でのできことであり、それ以上の広がりにあるはずの存在のあり方について、知り得ないことはそれが何かをまったく知り得ることなく、ただひたすらそれはそれ自体として存在している。私たちにはまったく知られることのない存在の仕方があるはずだが、そのことがいかなることなのか、それをまったく知り得ない。知ろうとすることのない何かがある。確かに実在しているはずの何かについて、どれほどの好奇心があっても到達しない存在のあり方があるのではないか。