存在するものごとのすべてが認識されているのではないのは当然の理で、認識をいかなるものと捉えるかで認識の意味合いも変容するが、しかし、それがいかなるものであるとしても、認識内に存在する何かとそうではない、認識外における存在を認めざるを得ない。認識内にある存在のすべてが物質的であるのではない。非物質的な実在がそれでも認識される。私たちの精神において実在する何かしらの意味が存在の流れとは異なった精神の場において実在する。精神の場において、意味が非物質的な実在としてある。非言語的な実在が精神の運動のうちに言語の実質とともに実在するのではないか。言語は非言語により支えられている。言語は物質的であるが、非言語は物質的ではないが意味として実在するのではないか。存在の情報空間のなかにあるのはすべてが物質的ではなく、その物質性を支えるための意味が非物質としてあるのではないか。