その264

 物質として存在するものがそれぞれに分かれているとき、その明確な境目はどのようにあるのか。りんごとバナナは確かに違うが、私たちとってはそれは同一の果物といった部類になると認識される。その認識とは普遍的なのか。普遍とは何か。私たちにとって普遍と感じられることが存在する物質それ自体においてもまた普遍なのか。普遍かどうかの判断を存在する物質がなし得ることはあるのか。存在する物質の側が何かの判断を下すのではないかもしれないが、それがそのようにあることとはつまり、存在するものごとにおいてなされている判断と考えられる。そう考えているのは私たちであり、私たちの認識が存在する物質がそれぞれそこにあることで判断を下していると考えるのであって、存在する物質の側からすると判断しているのではないのかもしれない。では、存在しているだけか。私たちのうちで用いられている言葉の意味がそのまま他の物質にもあてはめて考えていいのか。判断には判断といった意味があり、その意味のうちに、存在する物質もあるのか。そう考えることがそのまま存在する物質にあてはまるのか。当てはまるかどうかはその存在する物質の主観が実際に発露することをもとに、その認識としたいが、存在する物質が実際に判断といった言葉を理解するわけではない。それでも、存在する物質が判断していると決定することは可能か。できないのではないか。