その203

 私たちはその主体となり、存在へと働きかけをするが、意図的なそれとは別に、ただ存在することが存在に対して与える影響があるはずだ。田畑を切り開くこととは違って、意図的ではない企てが無意識に行われている可能性はつねにある。存在の広がりをすべて情報としたとき、情報の変数への影響がある。呼吸することなくして生きていけないが、呼吸は無意識に行われていることがほとんどである。意図的な企てではないが、ひとが呼吸をすることが存在にとってどんな意味をもつか。関係性のうちにある反応は意図的でもあり、意図的でもない。意図的なこともまた意図した結果ばかりを生むのではない。意図的に行ったことから意図しなかった結果がもたらされるもので、結果的に存在にどんな意味があったか、そのすべてを把握することはできないのではないか。しかし、実際に反応はしているうえに、その反応を結果を受けたのちに新しい存在のあり方がある。何かが起こっているのかその全容を把握することはできない。起こっていることは確かに起こっているはずだが、どんなことが起こっているのか、そのすべてを把握することができないのは、すべてを把握したといった確証を得ることができないと考えることが妥当に思えてていけないからだ。