その201

 存在について考えているのは、自らであり、自らの機能に由来した思考が、その言語のシステムとともになされる。先んじてある機能により規定された思考は、存在をどこまで把握可能なのか。他の機能からすれば、存在は別様に理解されるのではないか。まったく異なった機能を所有するとき、存在は別の見え方をする。それもまた存在のあり方であるのか。存在のありのままが浮かび上がってこない以上、存在の見え方は見えている通りにあるが、それを幻想と捉えるか、それとも、一つ一つの見え方が存在のうちにあることから、その見え方を見ようとする当人にとってのありのままであることから、存在のうちにある自然の一部と考えることができるのか。

 起こっていることのすべてがありのまま起こっていると考えられる。私たちの行動は自然なのか。それとも、ありのままの存在のうちで、いくらか超越的なのか。存在の流れに組み込まれた私たちの行為は、そのすべてがありのままにあると考えられるが、殊、その精神は存在の流れを除外した上で運動することがある。