その8

 りんごはりんごであり、存在できるいかなる地点にあってもりんごはりんごであることを続ける。いかなるりんごであるかは周囲の環境に規定される。りんごの内部にはりんごの外部がある。外見上見分けはつかない、りんごの内部と外部は、その境界を持たない。絶えざる運動があるばかりで、面で覆われた内部はつねに外部を含んでいる。面が内部を規定するのではない。規定しているように感じられるりんごの側面は私たちが見ればそう感じるのみで、実質、世界にとってりんごの側面とは何か。りんごの限界ではない。側面以上の広がりを持っているのがりんごである。

 りんごを持ち運ぶとき、りんごは時空間を移動する。刻々と移ろう時空間に影響を受けながら存在するりんごは、テーブルの上にあってもその運動にある。絶対的なりんごはない。ときどきのりんごがあるばかりだ。りんごとはその状態のことである。いかなる状態にあるかはりんごの内部にあるりんごの外部の影響下にある。りんごの内部はりんごの外部である。りんごの外部はりんごの内部である。

 りんごと関係をもった要素はすべてがりんごである。側面の内側であろうと外側であろうと、関わりを持った要素であれば、何もがりんごである。りんごの側面に触れ得ていない何かがりんごであることとは、触れ得るといった現象について把握した上での話になる。つまり、触れ得たといった瞬間とは究極の面で捉えていいのか。りんごに触れた何かが面でしかないことはないはずだ。何かはつねに立体である。どれほどの広がりにあるかが問われる。そのものの成立のために巨大であっても、りんごへの影響はある。わずかな水滴と同様に、その何億倍もの大きさのものから影響をうけているとき、接した面だけがその影響の実質ではないはずだ。