その318

 何かに対する認識が完全なるものではないのなら、その認識は成立していないことになるのか。認識の成立はその過程においても実在すると考えられるのか。何かを知るとは何か。知っているとは何か。認識不完全にりんごを知っているとき、それはりんごについて知っていることになるのか。りんごはこうであるがといったところで、そのことに対する反意があり得るとき、そう捉えていることはそのことだけでも不完全である。その全体に至る過程における部分的な認識においてでも不完全なのである。そうであることは事実であっても、それを翻す事実がそのことの裏にあるとき、私たちが知っていることは常に反論の余地がある。反論可能性がある事実が事実の実態であるとき、完全な認識はあり得ず、いかななる認識もまたその幻にあると捉えることが可能である。雨が降ったとき、雨が降ったとの認識をもつ。それは紛れもない事実であり、反論の余地はないと考えられる。しかし、それはそういった言葉で表現したことによる。表現された言葉の奥を捉えるなら、即座に言葉それ自体で捉えたことは不完全になる。どんな雨か。そう問えば、雨が降ったとの認識は迷宮に入りとなる。それを不完全と呼んだり、幻と呼んでも差し支えない。雨が降ったことは知っている。しかし、雨が降ったことにおいて事実はそれのみではない。遥かなる関連にあるとき、雨が降ったといった言葉で表現された事実において、その言葉がもたらす意味は、雨が降ったといった言葉以上の広がりにあることは言うまでもない。言葉がそのうちで完結することはない。言葉の指し示す現実が何なのかを考えた時、そして考えることが私たちの実存的な意味であるとき、言葉に置き換えられた現実はつねにその先がある。不完全だ。それで完全と思う感情がある限り、言葉はそれがどんなものであっても、幻のごときである。

 

その317

 カオスとはあくまでも私たちの認識内において起こる現象であり、そこでは次の瞬間が予期できないのではないか。順番がない。本来はその順番を知らないことが多くあるなかで、秩序はその順番をもっている。それもまた私たちの認識内において起こることだ。認識内に順番があったり、なかったり。捉えきれなさのほうが先んじてあって、そこうちのどこかに捉えられた現象がある。かりに存在のすべてが秩序立っているなら、すべてに順番がある。ただそのことを知り得ないだけなのか。

 認識主体の実在により、秩序があったり、カオスがあったりしそうなものだが、それは認識主体が生み出している夢なのか。実際に存在はどのようにあるのか。いうなれば、起こっていることが起こっているのであり、その程度のことではないか。まったくの自然としてそれは起こっているのではないか。そのうちに法則性がある。それとも、万事が法則に貫かれてあるのかもしれない。ならば、すべては秩序立っている。ただそのことを知り得ない。知り得ないからカオスと認識する。カオスとはであれば、認識の限界がもたらす幻ではないか。

 

その316

 現実とは何か。起こっていることの総体か。起こっていることのほどすべてを知らずに生きている。無意識に感じていることがあるかもしれないが、そのことに自覚的ではない。自覚しない何かを知っているとするか、知らないとするか。

 存在するものすべてが現実である。嘘も真も関係はない。真だけが現実なのではない。嘘もまたそのような姿をした真実である。どうすれば現実を生きていけるのか。いかにあろうと存在するものごとをいったんすべて受け止めることに始まるのではないか。そこに現実が立ち現れてくる。立ち向かう私がそこで現実のカオスを知る。秩序だったものは理解しやすい。しかし、現実はそのカオスにある。カオスをカオスのまま受け止めること。そのどこかに秩序がある。秩序とはカオス内秩序のことではないか。存在は起こっていることが起こっているのであり、そのいかなるかはカオスでもなければ、秩序でもない。カオス内秩序とは、秩序のあり方を私たちが認識したときに生じる現象である。私たちの認識する秩序がカオス内在的な意味とは何か。

 

その315

 何かがある。それはあるが、それだけがあるのではない。それがあるというのは、それがあると焦点を絞るからで、認識しようとするから、それがあることになるが、それだけがあるのではなく、その他のもののそれぞれが主体となって実在している。それぞれが主体であるとき、それぞれの主体はそれぞれの関係性を抱いて実在していると考えられる。それぞれの主体はそれゆえに、さまざまな関係性の一部となっている。何かそれ自体は主体でありつつも、客体である。あらゆる客体はむろん、主体である。主体の総合が大いなる客体として実在するのかどうか。 存在するすべてを含んだ世界は一個の原子のようなもので、総合されるがゆえの現象が何か起こっているのだろうか。個別だけでは起こり得ないことが存在のすべてを合わせた時に起こることがあるのか。存在のすべてはそうせざるともつねに総合された実在であり、それゆえの現象はつねに起こっている。起こっていることが存在の総合が原因になっていると突き止めることができるかどうかが問われている。

 存在の流れはいったいいかなる姿であるのか、その全容がはっきりと理解されることはないのではないか。ネットワークがどのようにはりめぐらされているか、目に見えない次元の現象をどこまで捉え切ることができるのか。起こっていることを頭で考えて可能性を感じることはできる。実際にそのように動いているかどうかを確認することができる。確認できることがあれば、可能性として考えられても確認できないこともある。確認できないことはあるのかどうか、それは定かではない。わからないが、そうかもしれないことも私たちにとっては現実である。

 

その314

 Aは存在しない。Aだけが存在することがないからだ。Aの実在について、可能にしていることがAにあり、かつ、その関わりXにある。動的なXは存在のすべてではない。Aの関係項であるXは Aを含む。AがあるからXがあるのか。XがあるからAがあるのか。いや、Aを生み出す領域がやがてはAを生み出したのだろうが、Aを生み出すと同時にXを生み出した。AもXもなかったときにあった何か、それがついにAとXを生み出したと考えたとき、まず先にあったのはAを生み出すための動因であったXではないか。Xではない何かがあって、それがAの原因であるXを生み出し、XがついにAを生んだ。そして、Aも含んだ何かが何かを生み出す領域となり、どこにもなかった何かを生む。そんな構造ではないか。Aは他の何かが存在するための原因である。それはすべての存在に当てはまる。何かがあることはそれ自体の実在の証だが、それ自体は他の何かのために実在するといった意味をもつ。何かが実在し、その関係にある何もかもがある領域にあるとき、その領域は他の存在の領域を含む。つまり、存在の流れのうちにある、何かが存在するために関係のある領域は複合的である。存在の一切において実在する何かに焦点を絞って、その関係する領域を捉えたとき、その領域は他を廃除することなく、他の何かの原因となっている。つまり、ある存在の原因が他の存在の原因でもある。それ自体ではなく、それ自体が実在するための原因を考えたとき、一個の原因がいくつもの実在の原因になっている。テーブルの上に一個のりんごがあることが他の何かの原因になっているが、それはまた他の何かの原因であり、それがどれほどの個別具体的に関与しているか、分かったものではないのではないか。

 

その313

 何かがそれ自体として存在するには、存在の流れの中にその骨格を持たないといけない。かつ、その骨格は流れに適応しながら姿を変えていかねばならない。骨格とは存在の皮膜を意味するだけではない。その内部の結果が皮膜を作っている。どこまでが骨格なのか、それははっきりと決めることができない。認識外にある。認識されないからといってないわけではない。歴然とそれがりんごであるための骨格はある。捉えて認識しようとするなら、固定された断片化することになり、かつ、厳密に認識しようとすればするほど、捉えきれなさに直面する。認識の厳密さの向こうにある何か。認識を超えて実在する真実があるはずだ。認識の限界を超えることはできない。認識されることは認識内にしかない。認識内にだけ何かがあるのではない。りんごは認識内にあり、かつ認識外にある。認識されていない事実が認識された事実に影響を与えているとき、認識内にある事実は認識外にある事実とそのままつながっている。つながっているが、認識されないものはやはり認識されない。しかし、いくら認識されないからといっても、認識された事実が認識されない事実からの影響を受けているとき、認識内の事実がいかにあるか、はっきりとしない。つまり、認識された認識内の事実もそのあり様を認識しようとしたとき、認識しきれないことになる。だから、認識内の事実は認識不完全にある。認識不完全な事実を認識内に持っている。認識内に認識不完全にある事実は以下に認識されているのだろうか。確かに知っている。しかし、そのあり方を探っていくと、実際に存在についてどこまで知りうることができているか。認識途上にしかないのが認識の実際であり、続きがまだあり、どこまで認識すればその完成となるのか。実際に存在するものを認識するとき、実際にあるものが完成することはないのだから、認識が完成することがない。ただそれでも、認識をその構造についてであるとするなら、自然が生み出すりんごなどの連続的な実在がいかにあるかについての認識であれば、その骨格を完全に認識することはできるのではないか。いや、りんごの骨格を認識しようとするとき、その奥行きがどこまであるのか、いったん認識として成立した認識もまた、それですべてと決定づけるわけにはいかない。つねにその先がある可能性がある。さらに細部を詰めていくことができるかもしれない。一度、完成したと感じられたことにも、その先があるかもしれないといった事実から逃れることはできない。認識される認識は未完のままなのではないか。さらなる物語がある。終わりはない。存在は変容する。気がつかないうちに存在が変容することだって考えられる。Aだった世界がBになるなら、相応の認識をもったうえで営みを送ることになる。かつてどうだったか。その痕跡がいくつもあり、たとえば、地磁気が逆転することもある。そこではシステムが一新される。新しい世界がやってくることもある。

その312

 りんごがりんごであるための骨格はむろん動的だが、それ自体であり続けている。動きながらも失われることのないりんごの骨格はその維持のためにりんごの内部のあり方に依存していると考えられるが、内部だけではない。りんごの外部もりんごの骨格が失われることなく実在するために、その適した状況が必要と考えられる。りんごがりんごであるためにはりんごの内部、りんごの外部が適した状況にあることが求められる。りんごの内部がその骨格のために適するためには、りんごの外部が適した状況でなければならない。内部は即外部である。外部は即内部である。透明なりんごはなぜその骨格を維持できているのか。透明な骨格というよりか、存在の流れに寄り添ったあり方であることがりんごの骨格の維持を可能としている。それが何であっても、それ自体が主たる認識主体となり、存在の流れがいかにあるかを読み、かつ、処理しながら、それ自体であろうとしている。それ自体であろうとする力が働いていること。それは内向きの力ばかりではなく、外部へ発散も行われているはずであり、情報を取り入れつつそれ自体であると同時に情報を捨てながらもそれ自体であるのではないか。結果的に毎瞬間、それ自体であるのだが、その結果を導いていく動きがある。内へと外へと向かっていく情報が結果的にどうなっていくかがそれぞれのりんごのあり方である。個別の実在に着目し認識を行うわけだが、認識のくびきをとっぱらえばいっさいは存在の流れのうちに飲み込まれていると考えられる。認識するから限定されるが、認識といったフォーカスをとっぱらったときに明らかになってくる存在のあり方とは何か。いっさいは流れている。認識するとはそのうちのいずれかの部分を取り出して把握することを意味する。取り出した部分がその他といかなる関係にあるか。いったん取り出した部分を基軸にして考えることとは何か。認識には始まりがあるが、その始まりは認識しようとすることの始まりではない。認識のために取り出した部分が始まりとなるが、その部分の始まりはそのものではない。