その252

 あることがそのようにしてあることに対して、それをしらないからといっても、そのあり方自体に変わりはない。何かを知ることで、存在に対して働きかけをすることが考えられ、それゆえに、何かしらの知は存在それ自体であり、かつ、物質レベルで働き掛けをすることから、自然の現象の一端ではないかと考えられる。拭き抜ける風により、その場の状況は永享をうけるが、そのようにして、発せられた言葉がその場のあり方を変えることがある。その時は微弱な影響しかなかった言葉が、ときを経て、多大なる影響を物質レベルで与えることがあるとき、それは、たとえば、巨大な台風がその場へ影響を与えたかのような状況にある。

 何かしらを考え、言葉に置き換えられたとき、その結果が物質に置き換わることがある。議論の末に構築される建物や街並みがある。それは、風が吹いて起こったできごとのようで、自然の現象と考えることができないか。

自然とは何か。人間が言葉を用いることは自然ではないか。人間の行っていることのどこかに不自然なことがあるのか。人間とは生命であり、自然である。もともと自然の中になかった何かを作りだしたことが人工物と呼ばれ、自然に反するように捉えられることがあるが、自然にあるものと、そうでないものはいったいどうやって区分けすることが可能か。自動車はその物質としては自然ではないかもしれないが、自動車の存在は人間の自然の営みの一端として実在するようになったと考えることは可能ではないか。人間の行っていることのどれかが自然で、どれかが不自然だと決定することはできるのか。

 不自然とは何か。自然と反することが起こっているだろうか。自然と反することが実在するだろうか。自然と反することが起こっている中で生きていくことがあり得るのか。起こっていることはすべてが自然的なのではないか。不自然なことは起こり得ないのではないか。起こったことは起こったこととして、それを自然と認めることで人間はその先に進んできたのではないか。これからもそういった風に起こったことを自然に捉えて、その営みを送っていくのではないか。それ以外に、営みの送り方があり得るだろうか。