その201

 存在について考えているのは、自らであり、自らの機能に由来した思考が、その言語のシステムとともになされる。先んじてある機能により規定された思考は、存在をどこまで把握可能なのか。他の機能からすれば、存在は別様に理解されるのではないか。まったく異なった機能を所有するとき、存在は別の見え方をする。それもまた存在のあり方であるのか。存在のありのままが浮かび上がってこない以上、存在の見え方は見えている通りにあるが、それを幻想と捉えるか、それとも、一つ一つの見え方が存在のうちにあることから、その見え方を見ようとする当人にとってのありのままであることから、存在のうちにある自然の一部と考えることができるのか。

 起こっていることのすべてがありのまま起こっていると考えられる。私たちの行動は自然なのか。それとも、ありのままの存在のうちで、いくらか超越的なのか。存在の流れに組み込まれた私たちの行為は、そのすべてがありのままにあると考えられるが、殊、その精神は存在の流れを除外した上で運動することがある。

その200

 存在はカオスであるとか、秩序だっているとかといった定義とは関わりをもたない姿であるのが本来的な存在のあり方ではないか。カオスであると捉えることができるのは、カオスといった認識を私たちが精神のうちに所有するからで、秩序もまたそうした捉え方を私たちが所有することが元にあるのではないか。存在はほんらい定義される以前の在り方にあるのではないか。カオスでも秩序でもないあり方をあるがままということができる。あるがままとは一切淀みのなさであり、言語の定義の一切を受け付けない姿ではないか。認識以前にある在り方が存在の実質であるはずだが、それがどのようにあるか、認識することはできない。剥き出しの存在は見えないし、聞こえない。何かを聞くときそれは私たちのフィルターを通した音を聞いているのであり、対象の素の状況を聞いているのではない。

 認識とはだから、一個の世界を構築する機能であり、その事実とは実存的であり、私たちは止むを得ず自らの機能に由来する認識をもとに存在のあり方を探っている。どうしようと、みずからの機能から逃れられない。存在の認識とは畢竟するに、自己認識のことである。

その199

 認識の存在は、それが在るといった一点においては、それがいかにあろうと実在であり、その正否については、関係性によるところから、即座に決定づけることが難しい。正しい認識とそうでない認識があり、そのいずれもに正しい可能性があるとき、認識の存在はそれが在るといった一点においては疑いようのないことになる。つまりは、言葉に置き換えられたことはそれが間違っていようと正しかろうと、在るといった一点において疑いようがない。

 正しいことだけが在るのではない現実において、正しいことだけを在るとはできない。私たちの実存とは、その本質においてはカオスではないか。間違ったこともつねに含んでいる。つねに正しいことだけを思い、認識するのではないのだから、自らの精神が拵えたカオスのなかにいるのが私たちではないか。

 

その198

 存在の渦中にある認識は、その内的な中身を持つと同時に、その内的な中身が存在の一部として機能することで、外部へと働きかけをする。存在を捉える認識は存在の一部として機能する。存在の含まれた認識は存在それ自体だが、存在それ自体として、その変動にある。認識の変動は存在のあり方に依存する。いかなる認識となっているかは、存在がいかにあるかとの関わりにあるが、存在の一部である認識は、存在のあり方そのものをそのまま捉えることがない。認識されたことは存在だが、存在をそのまま捉え切ったのではない。認識は存在に対して齟齬がある。存在の完全性に対して認識は不完全であるが、認識そのものは存在の一部として、そのものとして完全である。

その197

 存在のうちにある私たちの認識はそのすべてが存在におけるできごとである。存在のうちに認識がある。いかなる認識をもつか。それは存在がいかにあるかに関わることであるものの、そこには2通りの意味がある。つまり、存在がいかにあるかそれ自体を捉えるのが認識であるといった見方と、存在がいかにあるかを捉えることそれ自体が存在のうちで運動をしているといった見方がある。認識それ自体の運動が存在のうちにあることと、認識そのものがいかにあり、私たちがどういった認識を持っているかは異なっている。認識それ自体の中身と、認識それ自体が存在の中で繰り広げること。いずれもが認識の存在において起こっている現象である。

その196

 つながっているか、いないか。それは認識上のことで、つながっていない状況を存在の側が感知することはないのではないか。認識しようとすることで、つながっていない箇所が見出されるに過ぎない。あるがままある存在とは、認識を超えた存在ではないか。存在から認識の一切を除外すると、後に残るのは何か。一切の判断が停止した状況においては、つながっているもつながっていないもない。

その195

 水は水となることで水であることが可能となるといった見方からすると、存在するものは何もがある枠組みを存在の流れの中から与えら得たうえで存在することのなったと考えられる。水がなぜ存在するかを考えていった時、その因子が確かにあるが、それが揃うためには、存在の流れのなかから取捨選択されなければならない。選び抜かれた因子は結合することで、存在の流れにおいて、ある個別性をもつ。個別になるためにはその結合がいる。結合のしやすさがそこにはあるのか。結合しやすいことが多く、存在の流れの中に含まれると考えられる。地球には水が多くがあるが、それは結合がしやすいことが原因か。いや、存在の流れのうちになんらかの理由が隠されていそうだが、その原因はたやすくわからない。

 存在は流れつつも、一連の構造にあるのではないか。地球があるのは存在の流れのうちにある一連の構造が原因ではないか。地球に含まれる現象はそのすべてがつながっていると考えられるのか。つながっていることとは何か。いかなる状況のことをいうのか。つながっているなら、つながっていないこともあるのではないか。