その194

 水が氷になるのにどんな力が働いているか。水の内部だけがその原因ではないことは自明である。水はその外部の環境の変化を受けて姿を変えて、氷になる。内部の変化の原因が内部に一切ないと考えるのは過言となるが、外部環境が水を水のままとしておく。水が氷でなくて、水であり続けるかは、水の外部の環境いかんである。水の外部が水を水たらしめている。私たちがその外部環境に依存して生きていられるように、水もまた水であることができるのは、その外部環境に依存してのことだ。水が水となったことにその外部環境があってのことだが、存在の流れのなかほどにおけるある部分が水となるには、水の内部因子の発生にその外部が先んじて影響していると考えられないか。どっちが先か。水が水となるには、水の内部因子がその外部と反応した結果、水となったのか。それとも、水の内部因子はその外部から発生したのか。いや、水の内部因子が外部と反応した結果水となったと考えることはできない。水の内部因子が存在する時点ですでに水は存在している。それよりか、存在の流れのなかほどからある制御が働くことで、水を発生させる因子ができあがった。つまり、実在しない水の因子へ向かって流れていく存在が、あるとき水の因子を発生させた。水の存在しない状況においては、水の内部は存在しないことから、水の外部も存在しないというより他はない。ある時生じた水には外部はあるが、実在しない水にはその外部がない。実在しない水はその内部を持たない。存在はひたすらその流れにある。いつしか、制御が働いて、水は水となった。存在の流れを制御するシステムが水を水とした。その力とは何か。存在の流れのうちから水を水とする力がどのように働いたのか。水は存在の流れのうちから切り取られた存在なのか。水のない場に水を発生させる力が出来上がった水の外部にあった。場がその原因か。場のあり方が水を水にした。場のもつ状況が水の原因ではないか。あらゆる場のうちに水となる原因が潜んでいるのではないか。場が生み出した水が存在の流れの中を流れてく。

 

その193

  りんごのりんごらしさの原因とは何か。存在のうちでそれがりんごであるのはなぜか。りんごではないものからりんごは生じたのか。りんごがまったくなかったところにりんごが出来上がるためには、何が起こればいいのか。どんなできごとがりんごを生んだのか。水が氷になるように、何かがりんごになったのか。連続なのか不連続なのか。流れにある存在に不連続性はなく、不連続に感じているのは、意識が生み出す錯覚ではないか。意識は飛び飛びで下界を認識する。そのことが存在が不連続にあると錯覚する原因ではないか。りんごの原因の一切がない状況でりんごが生じるとは考え難い。何らかの原因があってのりんごではないか。それは存在を制御する力ではないか。存在が流れいるなかで何らかの力が働いてりんごを生じさせたのか。りんごがりんごになるために働いた力とは、りんごのうちなる力というよりか、存在の流れのうちにあった力と考える方が妥当ではないか。存在の流れのなかにあるいくつもの力のうちでりんごを生じされる力があったのか。水が氷になるにも、存在の流れからの要請がいるのではないか。

その192

 ある花があって、その意味について考えたとき、あらゆる言葉を尽くしたとしても、その花の意味のすべてを語ることはできない。言葉の意味以上にあるのが、その花の意味ではないか。どんな意味があるのはわからないほどにあるのが花の意味ではないか。ありふれた花を見たとき、その特異さに気がつかないことがある。ありふれた川もまたその意味を深く持つ。存在はそれが何であれ、そのものがそこにあること以上の意味の広がりをもったうえで存在するのではないか。

 森を説明しようとしたとき、その全体は実在可能か。刻々と移ろっていく森を仔細に説明することは可能か。森が森であることとは何か。どうやって森は出来上がっているのか。森のうちなる関係性には森の外部からの関係性が関わってくると考えられる。森は森でないものから出来上がっている。森の中を流れる川は森の外部にある。しかし、それは森の一部である。森の中を通っている水だけが森に属しているとかんがえるべきなのか、それとも、森の外にある水もすでに森に属していると考えていいのか。森の存在のためには森の未来がいる。いまだ森の中を流れていないとしても、やがては森を流れることになる水はいつ森の水と考えられるのか。

 時間の流れのなかにあるのが万物である。時間の広がりを持たない存在はない。あらゆる存在は時間の広がりをもつ。時間の流れのうちにある川はその現在だけの存在ではない。過去と未来のあいだにある現在は過去と未来との関連のうちにある。未来がどうあるかで、現在がどうあるかに関わってくるが、未来は実際に存在するのか。現在を基盤にできあがる未来は、現在がそう起こらないことには、出来上がらないと考えられるものの、現在はつねに存在するのだから、同時に未来はつねにあると考えられる。つねにある現在を基盤にして存在する未来はつねに可能性として実在する。可能性としての未来はつねにある。

 森の現在において、その未来がある。森には現在があるのだから、未来がある。森の未来は探せど見当たらないが、ふりしきる雨粒のいずれかが森を流れる川となるとき、明日の雨のいずれかは、森に属している。まだ起こっていないのだから、可能性として森に属しているのであり、あらゆる現在は可能性を所有したうえで存在する。可能性をもたない現在はない。現在とは、現にそこにあるものがその変遷先を模索しながら、その運動にある。動的である現在は定点を持たないのであれば、現在それ自体が私たちの認識のうちにおいては可能性としてしか実在しないのではないか。現在がいかにあるか、それ自体が未来と同じように可能性なのではないか。定まった現在は存在しない。その蠢きにある現在は認識する私たちにとっては可能性でしかない。

 現在とは何で、どこにあるのか。存在の側に立って考えた時、それははっきりとあるのか。存在はそれらがあるがまま実在しているのであり、いかにあろうと関係のないことで、ただひたすらにあるものがそのようにある。その定めをもつことのない現在は広がりの中を動いているのか。広がりはどこまでの広がりなのか。現在を規定し切る広がりがあるのか。未来でもなく、過去でもない場を現在と考えていいのか。存在する場はすべてが現在において実在するのか。場は未来にはない。過去にもない。場の存在はそう認識される限り、すべてが現在ではないか。認識される場のすべてが現在なのではないか。物質としての場といった意味で存在し、私たちに現実的な知覚を得ることの可能な場はすべてが現在なのではないか。

 水を飲んだとき、どんな現象が起こっているか。口に含んで喉を流れていって、胃にはいっていく一連の流れはすげてが現在において起こっていく。あらゆるプロセスは現在に起こっているのではないか。起こっていることが現実になるのはすべて現在においてではないか。過去はどこかにあるか。触れることのできないかつての情景はどこにも実在しない。終わったことは蘇ることはない。すべて一瞬のできごとだ。再現不可能なその一瞬、一瞬がある。あらゆる差異の総体でできあがっているのが万物ではないか。

その191

 何も知らなくても、生きていることはできる。知っていることの意味を言語化されたものとしたとき、言語化されたことだけを知っているのではないことがいえる。言語化されずとも、何かをみているとき、それがそう見えていることは知っているだろうし、何かの香りがしてくれば、その香りそのものを知っている。その香りを言語に置き換えるか否かがそこにはある。言語に置き換えられた状況だけを知っているのではない私たちは、言語空間とともに非言語空間に生きている。その間もある。言語と非言語が相互にまざった空間もあるのではないか。いえば、純粋言語空間はあるか。純粋に言語だけでできた空間には言語だけがある。しかし、言語だけがある状況には、言語がさし示す状況が実在しないと考えられる。言語とはそれが指し示す状況とセットになったうえで実在するのではないか。言語だけがあるようだと、どこか現実感を欠く。文字の羅列だけがあっても何のことか判り難い。いや、小説は文字の羅列だが、言葉には意味があり、それらを構築していくことで全体として深い意味を獲得することができる。一個のイデアを生むことができる。では、小説は純粋言語空間か。それが架空の話であっても、やはり言語が指し示す具体があるはずで、それ故に現実感のあるほら話が成立する。

 言語は感情へと働きかけをすることで、現実感を獲得するのではないか。感情が作動することが言語が無味乾燥とした記号ではなくて、現実感をもつのではないか。感情を経由することが言語に命を与えるのではないか。言語はこの意味でそれが純粋であっても、理性的なだけの存在ではない。感情といった大海に投じられることでその意味が浮かび上がってくる言語はその出所を感情に定め、かつ、理性で制御するのではないか。感情をコントロールするのが理性であるとき、感情が出どころの言葉もまた理性でコントロールされることで社会化されると考えられる。言語は共有されることで意味をもつ。言語を共有することとはそのまま社会を生きることを意味しないか。私たちはその領域の大小があっても、言語を共有しながらその営みを送っているのではないか。言語を共有することとはともに生きることの証であり、欲望的な感情的な言語が社会化されていくプロセスそのものが人の社会化と同期する。公を生きる個人はその言葉を社会と共有しながら歩んでいく。いかなる個人の言葉も他者の介在がある。その価値があってこそ意味がある言葉は、その価値を社会のうちにあると考えるべきで、社会のうちで価値を持つ言葉に言葉の真価があると考えられる。なぜ言葉を発するのか。それは他者と何かしらを共有することを意味する。なぜ共有しようとするのか。共有することなく生きることの何の意味があるか。ひたすら個人的な価値を個人だけで所有することのなにの意味があるか。個人をどこまで貫いてもその先がない。他者、それは過去であり、未来でもある。時間のなかで生きる私たちは言葉を共有することで、時間をともにすることができる。生きた痕跡が言葉に込められる。その意味は言葉の指し示す内容以上の価値があるのか。言葉の意味は言葉の意味以上のひろがりをもつ。言葉の意味にはその指示内容以上の意味がある。花が咲いている。その意味は何か。言葉がある。その意味は何か。

その190

   認識の存在なくして、私たちの実存はない。認識とはしかし、存在のうちに含まれている私たちにおいて完全なる整合にあるのではない。存在の渦中を生きている、そのときのことは、存在そのものと同期しているが、認識は存在のあるがままと比べられ、原初の遅れにある。根源的に私たちは遅れたかたちでしか存在を認識できない。存在をそのまま捉えることがあっても、捉えるといった行為の介在はすでに原初の遅れを意味する。

    認識とは何か。知っていることのすべてか。知っているとは何か。存在のために起こっている出来事の関係性を全て知っているのではないのに生きていられる私たちは、知らないことに生かされている可能性がつねにある。知っていることと関係のあることは違う。知らないが関係していることはあまたある。

 

その189

 知らないことが実際にいま生きていることとの関わりにあるとき、知ってはいないが関係はあることになる。関係のあることを知らないというのは、言葉になって知っていないだけの可能性がある。言葉になっていないことといかに関わっていると言えるか。関係性はそれ自体が存在しているとしても、そのありようはすべて見えてこない。関係性の連鎖の姿がすべて認識のうちに捉えられることはないのではないか。ある存在にかかっている関係性のベールがいかにあるか、その全容は把握不可能と考えられるのは、とある関係性のベールを一個の全体としたとき、その全体が全体として完膚なきまで把握されたか否かの確証を得ることができないのは、存在のすべてを理解したと確証を得ることができないのと同じで、限定されたある領域の全体であっても、その完全なる把握の確証をいかに持つことができるか。

 絶えざる運動にある存在の全体を捉えて認識に置き換えるとき、運動そのものを捉えないといけない。数に置き換えたとしても、数は存在と完全に合致するのではない。数にも限界がある。数に置き換えられた存在はその瞬間に次の瞬間にある。捉えた瞬間と瞬間のあいだにも瞬間があり、数に置き換えないといけない。存在を認識するとき、その至るところを認識しなければならないが、存在は数に置き換えられる前にすでに次の局面にあるのではないか。数に置き換えられた認識は存在のあり方からわずかに遅れをとっていると考えられる。存在の運行と完全に同一の認識は存在しないのではないか。認識には存在を捉えるために必要とされる時間が僅かにかかる。いつもその分の遅れがあるのではないか。

その188

   できごととはそのすべてが物質的か。物質的ではないできごとがあるなら、いかなる姿であるか。物質的実在はすべてができごとである。できごとの内実をすべからく捉えるとき、その全体とは何か。いかなる全体性ができごとにはあるか。全体とは、私たちの認識を超えた実在である可能性がある。そのとき、全体は存在すると考えられるのか。捉え難い全体は存在すると断定することは可能であり、実際にあると措定することはできる。それがどんなものであるかわからないがそれはあると考えることは可能だ。いかにあるかそれを知らずとも、あるはずだと考えることができる。考えるだけではなく、実際にあると決定づけることができる。どんなものかわからないとは、それが知識とならないといった意味においてであり、知識にならないことも含めて存在はそのすべてを全うしている。知らないから存在しないと考えることはできない。あまたある知らないことも含めての存在だ。知らないことも確かに実在していることで、知っていることの存在理由ともなっている。知っているか知らないかが、存在がいかにあるかとは関係がない。存在はあるがままある。そのうちのいずれかを知っていて、知っていない。知っていることは知っているが、知らないことは知らない。可能性として知っていることは可能性である事実として知っているのであり、存在がいかにあるか、その具体を確実に知っているのではない。知識には確実な領域と不確実な領域と未知の領域がある。未知の領域に向かって進んでいる。存在はそれ自体がすべてが自明であるが、私たちの認識のなかを生きる私たちにとっては、数え切れないほどの未知であふれている。