その187

 現在はその事実だが、事実のなかに偽りが混ざる。偽りの存在も事実であり、事実とはつねに正しいことばかりを含むのではない。誤ったことが誤って述べられることも含めて事実であるとき、事実とは、存在するすべてのできごとである。起こっていることのすべてが事実であり、起こっているといった意味においては、嘘も偽りもない。それはそう起こった。事実そう起こったのである。

 嘘をついた事実がある。その内容な、事実と相対したときに、反するが、反するといった意味においては事実であり、事実かどうかを問うのは、存在するかしないかを問うことである。存在する出来事の総体がこの世界を埋め尽くしている。

 

 

その186

  語とは何か。たとえば、愛といった語は何を包含するのか。愛でないことは包含しないのか。愛と関係のないことは愛ではないのか。愛と関係のないことは、愛と関係がないと思われているに過ぎないのではないか。関係があるか、ないか。それは主観的な現象であり、結論は可変的なのではないか。だされた結論はさしあってのもので、さらなる変化がある可能性がある。可能性として考えられることがすべて現実なら、現在における事実は当座のものでしかないことほうに現実がある。未来においても事実なのか、それが分からないのに、なぜ現在において絶対の確証を抱いているのか。

 

 

 

 

その185

 語は現場の文脈に依存する。定義は定義自体の文法に即したかたちでなされるため、語の定義は、その語の意味を狭量にしてしまう可能性がある。定義は文脈に依存し、その都度作り変えられる。使用者の実存がその語に命を与えるのだから、一口いえる定義をその語がもっているとするのは当座しのぎでしかない。どこに属した語なのかが問われているのであり、ひとしなみな定義が問われているのではない。唯一の定義があるのではないその語の意味はどこにあるかで異なってくる。定義は場により行われるのであり、辞書ではない。

 

その184

 言語空間は言語といった基軸をもとに、そのつながりにあると考えられるが、言語空間を含む存在空間において、言語空間内で起こっていることに、無関係性があることから、存在空間には穴があると考えられないか。言語空間はそれとも別次元での話なのか。物質的な存在空間とはべつにあるのが言語空間なのか。そうであれば、物質的な存在空間に穴があいていることはないが、言語は物質であり、物質的な存在空間といったとき、言語空間が含まれると考える他はない。しかし、そのあり方が問題だ。存在空間のなかでどのような場を占めているのか。言語空間とは存在空間における場のことである。どこにある場が言語空間なのか。言語のあるところか。どこに言語があるか、具に検討するしかないのか。具に検討した時に言語の存在する場のすべてが言語空間であれば、その連続性は幻想であることは間違いない。まずさきにあるはずの存在空間において存在する言語のある場は連続しない。物質的に独立したそれぞれの状況で言語は実在し、それら言語が実在する場の総体を言語空間と呼べるが、それはひと繋がりではない。個別の現場に根差した言語がそれぞれある。同一の語であっても、その意味するところは大なり小なり現場で異なってくる。

 

その183

 言語は合理的に示されることがあれば、不合理に示されることもある。言語空間の総体はカオスであり、秩序だっていないはずだ。総体は幻想でしかない。紡がれた言葉がすべて関連にあるのではなく、言語空間において、関係と無関係が入り乱れているのが現実ではないか。言葉に置き換えられた実質は閉鎖系であり、言外にもその意味をもつが、その運動は有限であり、物質的な言葉を基軸に、その領域がある。基軸となった言葉の外には運動することはできない。ある一つの表現がどこまでその領域をもつか、それは定かではないが、限界がある。その限界を超えた存在が言葉により示されるとき、ある表現がある表現と関わり得ない状況が発生するのではないか。言語空間はカオス的な様相を示し、関係性ばかりがあるのではない。断絶や無関係があることから、穴のあいた状況も発生していると考えられないか。

 

その182

 思考とは何か。考えることだが、考えることとは言葉をあやつることか。言葉で操るのは言葉だけか。言葉を操るのではなく、言葉で存在を操るのでもなく、存在のあり方がさきにあるのだから、その底では存在が言葉を操っていると考えるほうが妥当ではないか。存在の仕方にあった言葉が紡がれるべきで、存在の仕方にあっていない言葉の姿は空語でしかない。架空の物語なら、楽しめるが、存在を仕方を説明ようとする言葉なら、それが存在に適合してないのであれば、その言葉は虚無ではないか。いや、それでも、その間違いがもとになり、新たなに認識を得ることがあるなら、空語もまたプロセスの一端か。間違ったことを書くことで気がづけることある。書いてみないとわからないとき、そこには空語が含まれるのは当然か。私たちの認識において空語は日常ではないか。空語抜きの言語活動はあり得ない。言葉のどれが存在に適当かを精査していく営みが言葉との付き合いではなか。つねに正しいことばかりが言語空間にあるのではない。空語を含んだうえで存在するのが言語空間であるとき、言語空間はその全体としては不合理となる。合理を含んだ上で、全体としては合理の枠を超えた実在なのが言語空間ではないか。

 

その181

 りんごのなかでりんごの成分がりんごについて考えることとは何か。りんごの成分はりんごのことを考えているから、りんごの成分であることができる。りんごの成分はりんごについて考えさせられる存在であり、りんごの成分である以上、りんごについて考えざるを得ないように、存在の一部である私たちは存在について考えざるを得ない。存在であるにも関わらず、存在について考えることなしに生きることは可能か。考える内実を存在以外のこととすることは可能か。考えていることはすべてが存在についてではないか。存在以外のこと自体が実在するか。実在する何もが存在であるとき、実在しないものであっても、存在に関わることであるのであり、存在である私たちは常に何かしらを考えるが、そのすべてが存在についてである。存在しないものも含め、思考対象は全てが存在についてである。

考える行為それ自体もまた存在である。存在それ自体の運動である思考は存在との関連にある。思考とは、その主体がその外部との関わりにおいて実在する。存在する限り関係性のベールがはぎとられることはない。関係性のベールにくるまれた何もが、関係性をつむいでいる。思考とは関係性により生じる運動である。言語を介在とし、言語に端を発する思考も非言語との関連にあるのであり、非言語を端に発する思考もまた存在する可能性がある。言語の絶対性は明確であり、確からしさがあるが、思考に介在した言語は思考のプロセスの一端にすぎず、始まりかどうは定かではない。ある思考の発端がどこにあるのか。思考は存在についてであり、存在が存在することが発端なのであれば、言語は途上での関与となる。