その180

 つながっているか、つながっていないのか。事実は一通りしかない。すべてがつながっているのであれば、つながっているし、つながっていない状況もまたそうあるなら、それまでの話だが、そのピュシスが見当たらない。ありのままが見えるなら、それ以上考える必要はないが、考えていかないと見えてこないことは見えてこない。考えることでつながりが見出されるが、つながっていない箇所もまた考えていくことで見出されるのか、それとも、物質的な次元において実在する状況については考えることでむしろ間違った認識をもつ原因にもなる。ただ一通りの事実さえ見つかればいいのだが、見つかったと思ったことが正しいかどうか、実際に起こっていることと完全に整合するのかどうかについてどうやって確証を得ることが可能か。判断の根拠をどこに据えるべきか。実際に起こっていることと同一の認識を持っているのかどうか。まずあるのは実際の存在のあり方で、それとまったく同じ運動を認識のうちに持つこと。存在そのものの動きが認識そのものに置き換わることがない以上、私たちの認識は常に概観的なるものでしかない。認識はあくまでもイメージの像でしかない。現実はそれ以上の強固な運動にある。一瞬のブレもない状況で完膚なきまで存在を貫いているのが実際の運動のあり方だ。それをそのまま取り出して眺めることはできない。精神のうちでイメージを抱きながら構築していく世界観はあくまでも実質そのものとは完全に合致していない。実際の存在の運動はその物それ自体であり、再現は不可能でしかない。細部まで捉えようとしてこそ得ることのできる絶対認識それ自体は実在可能か。実際に起こっていることのうちに含まれる私たちの精神内部における認識はそれ自体が運動をし、存在の一端であることは事実疑いようのないこと。つまり、存在のついての認識は、存在そのもののうちで拵えられているのであり、それはりんごのなかでりんごのイメージが描かれていることを意味するのではないか。私たちは存在なかにいる。存在の運動のなかで運動しながら精神のなかで存在のあり方を描いていることは、りんごのなかに存在する何かしらの認識可能な主体がりんごの実像を描いていることを意味する。

 

その179

 意味だけがある。意味だけがあるのが存在の広がりにおける実質ではないか。意味が姿を変えながらあるのが生きる土台としての存在ではないか。意味が姿を変えるのは私たちの内的な実存でもあり、かつ、私たちとは無関係に意味の変容がある。その意味の変容が私たちに完治されることなく、そのまま失われたとき、その意味は存在にとっては意味があったが、私たちにとってはどうか。その意味がなければ私たちが実在しなかったのか。存在する限りその意味はあった。しかし、あるべきだったかどうかは定かではない。他でもよかったのかもしれない。私が生きるために必要なく、他のことでもよかったことが起こっている可能性はある。存在は存在する限り、そのつながりにあるが、すべてが繋がっているというのではないのではないか。つながりは限られているのではないか。つながっていないが、同一の存在のうちにあることがあるのではないか。つながっていることとは何か。つながっていないこととは何か。

 

その178

 意味の一切がなくってしまえば、無すらも実在しない。どこにもなにもない。主体の一切が存在しないなかで実在する認識はない。認識の一切がないとき、存在は一切の関係性を持たない。関係性なき存在は、存在し得ない。存在は関係性として実在する。それが在ることとそれがないこととのあいだに在る何かが意味としてあるのか。実在と不在のあいだに何かがあるとき、存在の一切があるとか、ないとかといった認識自体が不可能となる。認識不可能の存在は、可能性に置き換えられる。可能性としてあることは、私たちの認識のうちに含まれてある。認識とは実在であり、認識の含まれるものごとはすべてがある。可能性として考えられることもまた認識に含まれる。認識内存在とともに認識外存在もまた存在のうちにあり、可能性を顧慮したとき、認識のありようは可変的である。可変的な認識は存在のうちで姿を変えていく。ないはあるになる。あるはないになる。あるの一切が消滅するために必要なことは意味の殲滅であるが、意味は無を含むと考えたとき、一切の物質が消え去ったときにおいてでも、意味はそれが無であるといったことにおいてでも実在すると考える他はない。認識されようとされまいと、無がじつざいすれば、そこには意味がある。存在は意味を失うことはできない。

その177

 意味とは何か。存在それ自体である以上の不可知な実質ではないか。在ることとともに、ないことも意味である。何かがないことも意味であるとき、何一つとしてないこともその意味をもつ。つまり、無は相応の意味を持っているのか。とかんがえたとき、一切が無となっても、無としての意味がある。であれば、存在の一切がなくても、意味だけはある。存在の一切がないは言い過ぎで、無といった意味は、物質が一切なくなっても、ある。意味は永遠に消え去らない。無としてある世界はその意味をもっている。

 

 

その176

 物質だけがあることそれ自体は完結しない現象ではないか。物質とは何かと問われたときに、ただそこにりんごがあるだけのことか。運動するりんごを構成するための意味があると考えられる。物質は、意味に貫かれている。意味が物質をもたらしているのではないか。存在の最終根拠として実在するのが意味ではないか。意味なくして何も実在することはない。何かが存在するのは意味があるからで、私たちが存在するから意味があるのではない。私たちとはまったく関係のないところであるのが意味ともいえる。むろん、私たちにとっての意味もあるが、私たちがいようといまいと意味はある。意味があるから、地球は実在するのだろうし、意味があるから、万物がある。万物のうちの一形態である私たちは、意味の広がりのうちにある。意味に含まれた実在である私たちは意味を生産することがあれば、意味を消費することがある。意味はその運動により、姿をかえる。形質をもたない意味もある。まったく何もないといった、無はそれが実在すると考えられるか。つまり、存在の広がりにおいて、あらゆる存在を否定し切る時刻が実在するか。時刻の一切が実在しない場はそもそもにおいて実在不可能である。あらゆる場の喪失が起こるとき、何一つとして実在しない現象が起こる可能性があるが、しかしその後いつしか何かが生じるなら、それは意味によると考えられる。一切の意味の消失はあり得るのか。

 

 

その175

 非物質的な運動はそれが物質ではないことにおいて、いかに成り立つ話なのか。物質ではないものの運動とは何か。いかに実在するのか。物質ではないものが実在することを認めた時点で、その運動があることと認めることはできるのか。物質ではないものはいかなる機材を使おうとも見えない。見えないが、理論上はあると考えることはできる。考えたことがそのままあるかどうか、それは定かではない。定かではないからといってないとはいきれない。可能性としてある非物質的な実在は、存在が運動することを包括的に表しているのではないか。運動する存在は意味による。意味とはその存在をして運動と考えられる。存在とは意味の広がりであり、物質はその広がりの中にある。物質が運動するのは意味が変わっていくことの証左であり、存在は物質があるだけでは成立しない。

 

その174

 意味は物質的でもあり、非物質的でもある。物質はその運動により意味を変えていく。その原動力になっているのが非物質ではないか。非物質が物質を作っているのではないか。なぜ物質があるのかの理由が非物質的な意味にあると考えられる。考えるから存在するのではなく、存在はそれが在れば、物質と非物質の間を行き交っているのではないか。非物質が存在しなければ物質だけでできあがった存在になるが、それでは物質が動けないのではないか。物質は非物質からの力を得て物質的な変化をし、同時に非物質を吐き捨てていると考えられる。非物質的な空間に非物質的な意味があるのか。

 空間はつねに物質的なのではない。非物質性を宿した存在としての空間はそれ自体が運動をする。その運動もまた非物質性を宿しているのではないか。