その575

 方程式の右辺と左辺には、それぞれが持つ量があり、その量が等しい。等しいことの意味がバランスが取れている。あるいは、釣り合っている。つまりは、何かと何かがあって、それぞれの持つ量を秤のうえに置くと、右辺の持つ量と左辺の持つ量が同一で完全にバランスが取れることを意味する。右辺にも左辺にも何かのうちの何かの量が示され、その量がそれぞれ同一であることを意味する。1+3=4の意味するところとは、何かのうちにある量が1あり、その量の意味するところと同一の何かが今度は3ある。同一の何かが1あって、3あるなら、それらを加えれば、4となる。合計で4あるものは、可能性として3と1に分けることができる。そのことを1+3=4は示している。つまり、4がどのように分かれることがありえるか、その可能性を示しているといえる。

 繰り返しになるが、1+3=4において、3とは、同一の1がみっつでできていることを意味する。右辺の4も、前提条件としてある1が完全な自己同一性を保ったうえで、3となったり、4となったりしている。こういった事態は現実の個物においては起こらない。存在する限りのすべてのりんごはそれがりんごであることは同じであっても、実質的にすべては異なっている。そのとき、ひとつのりんごと3つのりんごを足せば4つのりんごになり、1+3=4となるが、この式の内実は何を意味しているか。同一律で示された1+3=4においては、完全に同一である1からすべてができている。つまりそのとき、1+3=4の内実における同一さとは、その数が示しているのがりんごであるといった意味である。りんごはどんなりんごもりんごであるといったことにおいて同一であり、それゆえに、同一律で表現された1+3=4は成立するのではないか。いや、純粋な数の操作でもある。1+3=4がなぜ成立するのか、その意味をりんごを用いて表現したが、言うまでもなく、数が示している何かがりんごでなくても、いや、それがなんであっても、同一の1からできていれば、あらゆる1+3=4は成立する。