その557

 この世界にはいくつもの系がある。構造のことだ。それはなぜか。すべてが相互反応するからだ。相互反応することそれ自体がアプリオリにあるとき、すべては系を持つ状況に落ち着くことになる。反応し合うことで、相互に相性の良し悪しによって系を生む集まりがあり、集まったとしても系を生まない、そういった集まりもあるのではないか。集まっているといった状況は同一でも、それらが結束的につながっているかどうか。系となるかどうか。さしあたり、集まっている状況それ自体をひとつの場としたとき、その場における現象が結束的かどうか。りんごがあって、その周囲の空気がそのりんごとどこまで結束的で非結束的か。場は存在を選ばない。そう考えられる。場は何も選ぶことなくただそこにある。誰かを選んで風が吹くことのない自然のようなこととして場があるのではないか。場は存在のすべてに対して開かれている。何でもすべてを受け入れるカオス場がある。場とはそのすべてがカオス場のことだ。カオス場において、いくつもの粒子が集まって秩序を作ることがあれば、いくつもの粒子があっても、秩序をもたらすことなく、構造化せず、結束的ではない、場における粒子のカオスな振る舞いもまたあるのではないか。さしあたり、構造化された部分だけが理解されていくのかもしれないが、構造化していない粒子がカオス場にいくつも集まっている可能性がないか。