その625

 認識それ自体は、その実在性をして、世界における定点であり、その定まりは認識主体と認識対象のあいだに発生する。さて、すべての認識を掛け合わせたなら世界はできあがるか。できあがらない。世界はすべての認識の外にも広がっている。認識されない世界も世界である。世界とは存在するものごとのすべてを含んだ様を意味する。どんな主体にも認識されていない何かはしかし実在しないのではないか。なぜなら、すべてというすべてはつねに他の何かと関係を結んでいるからだ。何かと関係を結んでいる何かは、相互認識に状態にある。

 

 

その624

 ある瞬間に何かが完成することはない。どんな瞬間も未完のままだ。それは、ある瞬間を完全に捉え切ることができないからだろうか。認識はそれ自体として成立することでその意味をもつ。そのようであることに意味があるが、それは認識対象におけるそのすべてではない。認識が実際に世界をありのまま捉えているのではない。認識主体それ自体が実在し、その主体はそれぞれが刻々と世界との関係のもと、認識を生んでいる。それぞれの認識は世界を断片化した結果であり、認識する側と認識される側はその両方に、その認識の原因がある。生じたある認識の原因は認識主体にあり、同時に、認識対象にある。

 

 

その623

 到達したある点において存在する何かの完成形は、それが何かであることが原因で完成する。それが何であっても具体的な何かであるとき、それ自体がつねに運動しながら完成した姿にある。イデアとはだから、何か具体的な物事のことであり、それがいかなる姿であるかは関係がない。変化していくその姿は常に完成されたものだ。変化の先に完成形があるのではない。

 

 

その622

 存在するそのすべてのすべてがいかにあるか、明らかとなるはずはない。いや、存在するものとは実際において、いかにあるのか。かつて存在していたものは今現在においてはない。いや、ないのかもしれないし、あるのかもしれない。どこにあるかはっきりしなくとも、あるかもしれないといった可能性は消え去らない。われわれは実在する限りにおいて、可能性と戦う他はない。事実とはつまり分かっていることであり、世界は分かっていることだけでできているのではない。可能性で満ち溢れている。認識内において、あらゆる可能性が消滅したとき、ひとまず認識はその完成となるのかもしれない。いや、それは違う。可能性とは考えうることにおいて限定されたことに過ぎない。次の瞬間に新しい可能性について考える可能性を否定することはできない。この動的な世界において、完成したものは何をもって完成したのか。

その621

 存在のぜんぼうを理解することができないのは、理解したか、できていないか、その判断が永遠にできないからだ。実在はあるようにあるだけだが、そのありようについては、我々が決定づけることはできない。

 

 

その620

 世界がどこまで開かれているのか、それは知らない。そもそもにおいて、世界それ自体の物理的中心はいわゆるところの私ではない。もちろん、私かもしれないが、その可能性は限りなく低い。というか、可能性はゼロではないか。生きている誰かがこの世界の中心であるはずはない。そもそも中心とは何か。何を意味することで存在の中心となれるのか。世界とは存在している現象でできているその総体である。世界に中心があるなら、そこにはどんな現象があるのか。あるいは、世界の中心を決めるのは私たちでしかないのではないか。であれば、私たちが決めた中心は、存在する限りにおける世界の中心である確証がどうすることで得ることができるだろうか。

 

 

その619

 我々人類は誰もが世界に埋め込まれた実在であり、つまりは存在の一部である。我々は誰もが単に存在の一部であるということに過ぎないのではないか。存在のすべてと関係しているのではないのではないか。ある個人と関係のある物事と関係のない物事がある。そういった世界に誰もが生きているとき、我々人類においても、存在は誰しもにすべてが開かれて実在しているのではないのではないか。ある個人にとって関係のある領域があって、それは世界のすべてではない。私は世界を部分的に閉ざしている。誰もがそのような実在なのではないか。