その618

 認識は閉じていることで成立するが、認識内容は認識内において閉じていないはずだ。閉じているから成立するものが閉じていないこととは何か。認識はその成立にあることで実在している。その成立のためには、何がどうなっていればいいのか。つまり、認識内で完結するように世界ができていないといけないといったところだろうが、確かに世界は認識内で完結するようにできている。しかし、世界は認識の外にも広がっている。なぜ認識の外にも広がっている世界の部分を認識内に閉じ込めてしまうことができるのか。世界の部分だけを取り出してなぜ、それを世界として認識してしまうのか。我々はやはり、自意識過剰なのではないか。

 

 

その617

 世界を認識したその認識がなぜ成立するのか。認識は認識内において完結している。つまり、閉じているのだ。すべての認識は閉じている。閉じているから具体的にある。それはりんご一個であっても、そうではないか。閉じているから具体的にある。むろん、閉じているものは開かれている。開かれているといった意味は、それが運動していること表す。動的な実在はそれ自体の外部との関係にある。運動しながらさまざまなものと関わり合いながら、その変化にある。そのものが関係する領域があり、それは世界のすべてではないのではないか。ある個体を主体に定めたとき、その個体が関係するのは世界の部分であり全体ではないのではないか。

 閉じているから成立する認識はなぜ、それ以上の関係にある世界のなかで成立してしまうのか。

その616

 過去の世界と現在の世界は実質的には分かれていないはずだ。しかしなぜか、過去の世界があって、現在の世界がある。過去の世界とは、しかし、認識内の実在でありながら、認識外の実在でもある。世界とはそもそも認識内に閉ざされたものではない。世界の広がりは常に認識外にある。世界が認識の外にあるのに、なぜ認識内において認識が成立するのか。認識外の世界とつながっているはずではあるが、なぜ認識内において認識が成立するのか。

 

 

その615

 一瞬で世界のすべてが判明する数式があるなら、それは万物に対する数式となるが、それは実在するだろうか。あるりんごであっても、その一瞬をいかに認識可能か。あるりんごの一瞬は一瞬しかない。その一瞬を逃してしまえば、その一瞬はもはや再現できない。世界にはそのようにあった欠片が失われたのか。いや、世界はその現在において過去をもとにできあがっている。世界に過去がなければ現在はない。世界には現在だけがある。いや、それは明白に認識可能なのが世界の現在なのであって、認識できないが、現在の世界があるためには、過去の世界がなければならない。

 

 

その614

 たとえば、一個のりんごのすべてがどのような運動状態にあるか、そのすべてを捉え切ることができた数式は存在しない。誰も一個のりんごの全体像について知らない。知らないが、一個のりんごは確かにその全体としてある。

 

その613

 事実は存在しないわけではない。事実とは、信仰によってできあがる。信仰によって下支えされていることは、そのすべてが事実ではないか。永遠普遍に正しいかどうかが事実の意味ではない。各人によって信じられていることのすべてが事実である。あることについて、それを正としても、非としても、そのいずれもがこの世界に確かに実在する信仰された事実である。事実がそのまま世界で起こっていることそれ自体であるか、それを証明する主体は何か。事実がほんとうに事実であるかどうかを証明する主体は実在しないのではないか。そのとき、つまり我々の認識内で起こっていることの証明主体が不在であることを意味する。認識内で起こっていることはそれ自体事実だが、その事実がほんとうに世界それ自体についてであるのかについて証明する主体が認識内にあるかどうか。認識内の確証を証拠立てるのは、運動ではないか。ある数式に数値をあてはめたとき、それが指し示す現象、あるいは世界がそのように運動するとき、認識は完全に世界と合致したことになるのか。認識をほんとうの事実にするのは世界の運動性ではないか。世界の運動性によってわれわれの認識は証拠立てられる。運動性によって証拠立てられた認識はその時点では信仰ではない。

 

 

その612

 あらゆる事実は信仰とともにある。われわれに信仰的な態度があることで、この世界には事実がある。事実とは、言葉によって示される。放たれた言葉はそれ自体が事実を示す場合と、事実を示さない場合がある。むろん、事実を示す言葉は世界中の誰にとっても事実であるわけではない。誰かにとっての事実は誰かにとっての事実ではない。言葉の示すことはなので、事実であり、事実ではない。ある言葉について、信仰する人々と信仰しない人々がいる。