その325

 この世界の可能性とは、存在の物質の側にはないのではないか。私たちの思考する精神のうちにならいくらでもある可能性も、私たち不在の物質だけの世界では、起こり得る可能性といった概念が実在するだろうか。物質はその変化にあるのだから、それを思考体と呼んでもあながち間違いではない。周囲に反応しながら変化をしていく姿は何かを考えているようではないか。周囲に反応することは常に行われている。いつ何時も周囲がある。その内側もまたそのものの環境ではないか。そのものの実在はそのもの独自のシステムにある。そのものであるためにあるシステムとは非物質的な何かではないか。物質がある姿をもつためにあるのが非物質的なシステムではないか。

 物質はなぜ系をもつのか。系があるから何かがある。系がなければ、何かが存在してもひたすらなるカオスでしかない。ひたすらなるカオスがあるだけの世界には一切の系がない。一切の系がない世界には個物がひとつもない。淀みだけがある。淀みとは系になりきらない存在としたとき、この世界には淀みがあると考えられるか。一切が系としてあるのか、系と淀みが同時にあるのがこの世界なのか。淀みから系が生まれ、系が淀みとなったりしているのか。世界にはその余白がなければ成り立たない。系だけしかない世界は動かない。そう感じられるが、系だけしかない世界もその初めにおいて運動にある。運動する状況があるとき、系であっても、その運動にあることで、存在に余白が生じる。存在の余白とは私たちがどうやっても捉えられない何かではないか。知っていることはすべて認識のうちにある。しかし、存在はすべてが認識のうちにあるのではない。認識されないことが認識を動かしている。認識は動きながらその拡張にある。実質的には存在はそのすべてがその姿であり、余白などない。余白があるものだと感じてしまうのは私たちが認識の外に出て何かを知ることができないことを意味している。

 

その324

 起こっていることのすべてを知ることは到底できない。何かが起こっているのか、その全容がまず分からない。有限の全体はあるのだろうが、それがどこまでの広がりにあるのか、まるで分からないのだから、起こっていることのすべてを知ることができるはずもない。

 ただそれでも、起こっていることが起こっているなかにいる。起こっていることがあるから生きていられるのは事実の側面がある。一方で、起こっていないことがあることで生きていられもする。起こることばかりではなく、起こらないことも、何かが存在するためには必要な現象なのではないか。

 起こることがあって、起こらないことがある世界とは、閉鎖系と捉えられないか。閉ざされた世界にいるのではないか。可能性として考えられることのいくつもが起こらない。起こることだけが起こっている世界とは閉鎖系ではないか。

 

その322

 不自然なことが起こることがあるのか。何かが起こればそれは未知の法則も含んだ物理的な現象として起こっているのではないか。それがどういう理由で起こっているか、分かることと分からないことがある。分からないことは分からないだけで、その理由がないのではない。もっとも、そうなった理由が完全に実在することがあるのか。つまり、理由のすべてが把握されることがあるのか。いや、存在の現象における理由がどのようにあるか、それは存在の側にすべてあり、それらを認識できるか否かといった話に過ぎない。認識内因果と同時に認識外因果があって当然ではないか。認識されうる因果があるとともに、どうやっても認識されない因果があって当然ではないか。認識されない因果は存在していても認識されないのだから、私たちにとってはないに等しい。とはいえ、関係はある。知らないだけでそれがあることで知っていることが起こっている。知らないことと実際に関係している。知らないことが起こっていて、というか、ほとんどすべてが知らないことだ。知っていることはごくわずかしかない。ごくわずかの知っていることは、知らないほとんどのことが原因となって起こっている可能性にある。

 なぜ可能性としてしか考えることができないのか。事実として考えられないのか。それは知り得ないからではないか。知ることのできる領域が少ないから、あとのことはすべて可能性として考えられるということになるのではないか。知ることの領域がもっとあれば、可能性として考えられるとしなくてもいいのではないか。

 可能性として考えられていることが現実的にどうか。それがはっきりとすればいいのだが、決定するのに躊躇わられることから、可能性として考えられるとなる。もっとも、未来のことはすべてが可能性としてしか考えられない。未来のことではなく、実際に起こっていることのうちでどんなことが可能性として考えられているというだろうか。

 

その321

 存在が認識内だけにあるのではない。認識外にも存在することで認識内にも存在する何かがある。存在しているものにおいて、他の何かがどこまで必要なのか。それ抜きでも存在するものは多いはずだが、しかし、現に存在は一通りの仕方である。それ抜きで存在するかどうかについて考えても、起こることが起こっているのが世界であり、その一回性である。

 仮にこうだったらどうなのか。そんな話になってくるが、その話にどこまで意味があるか。現に起こることが起こるしかないなかで、こうだったら、ああだったらといっても、そうなることはないのではないか。しかし、テーブルのうえにあるりんごにとって不可欠の何かはやはりあり、そうではない、りんごにとっては必要ではない何かがあるのかもしれない。その現象が現に起こっているのかもしれない。であれば、仮にこうだったらの話には意味がある。考えて理解するための方法の一つとして仮の話はありだ。

 まず先にあるのは起こっていることで、その集積が世界となっている。その世界がどのようにあるかについてをあれこれと思案しながら考えて認識しようとする。その認識が世界を変えていくこともある。それは世界の見方が変わることでもあるが、世界そのものが変わったのではない。それでも、認識の変容により世界への働きかけが変わることはあるのだから、私たち人間のあり方が世界がどのようなものであるかに影響を与える。それはどんな波が立っているか。どんな風が吹いているかと同じ次元の話ではないか。私たちのあり方が自然を変えるように、波のあり方もまた自然のありようを変えていく。私たちのありようがまさに自然なのであり、それは雨が降ることとなんら変わりはない。

 

その320

 認識外存在は認識内にはないのか。認識内にあることは認識外にあることとの関連にあり、認識外に存在する何かしらがなければ存在しないと考えられる。時間軸を投じて認識内存在を把握するなら、その存在は運動にあり、認識された瞬間以降、存在が関わろうとする何かを含んでいる。何かが存在するには時間の流れがなければならない。存在の広がりがあるためは時間が流れていないといけない。認識もまた存在について行うのであり、時間の流れのなかで捉えていかねばならない。時間の流れの中で行われる認識はたえざるその変容にある。一個の認識内存在があるのではない。姿を変えていく認識内存在はそれが認識内存在である限り、認識の外にはないが、可能性として、認識外の存在と関連している。つまり、認識内存在は認識外存在を含む可能性にある。

 

その319

 認識はその主体により存在に対してフレームを与える。いかなる認識もそのフレーム内にある。現実はその外でも起こっている。認識が与えたフレームは存在の全体ではない。存在の全体とはそのあらん限りであって、けして認識が与えたフレームの内部で完結することではない。