その178

 意味の一切がなくってしまえば、無すらも実在しない。どこにもなにもない。主体の一切が存在しないなかで実在する認識はない。認識の一切がないとき、存在は一切の関係性を持たない。関係性なき存在は、存在し得ない。存在は関係性として実在する。それが在ることとそれがないこととのあいだに在る何かが意味としてあるのか。実在と不在のあいだに何かがあるとき、存在の一切があるとか、ないとかといった認識自体が不可能となる。認識不可能の存在は、可能性に置き換えられる。可能性としてあることは、私たちの認識のうちに含まれてある。認識とは実在であり、認識の含まれるものごとはすべてがある。可能性として考えられることもまた認識に含まれる。認識内存在とともに認識外存在もまた存在のうちにあり、可能性を顧慮したとき、認識のありようは可変的である。可変的な認識は存在のうちで姿を変えていく。ないはあるになる。あるはないになる。あるの一切が消滅するために必要なことは意味の殲滅であるが、意味は無を含むと考えたとき、一切の物質が消え去ったときにおいてでも、意味はそれが無であるといったことにおいてでも実在すると考える他はない。認識されようとされまいと、無がじつざいすれば、そこには意味がある。存在は意味を失うことはできない。