その23

 生身の人間は絶対を排したカオスにある。自己の内外の連関にあるが、その様子とは、私たちの認識機能に対峙したとき、最終的にはカオスでしかない。私たちの認識する方途である合理性がそのまま認識対象にあてはまるのではない。何かがあれはそれは私たちの合理的な認識と合致する部分と、合致しない不合理な部分がある。捉え切れないからといってないというのではない。捉え切れないまま、捉え切れるものとの関係にある可能性がある。

 私たちの認識から可能性が消え去ったなら、私たちの認識は完全になる。起こることは起こり、起こらないことは起こらない。すべてを知っている。目の前のりんごがどうなっていくか、確実に予見できる。現在にあるりんごが現在にいる私たちに捉えられるのは、おおよそ同一の時間のなかにいるからで、私が未来にいて、りんごが過去にいるのではない。私たちの認識をつなぐ鍵は、時間的並行性であり、存在は時間の並行性の遡上にある。世界は時間によりフォーカスされ、浮かび上がった象ではないか。現在といった一点の運動が時間ではないか。時間を成立させるための運動とはなにか。