その24

 現在といった一点の運動とは、私たちの認識機能に依存した運動ではないか。何かがあり、それを認識するから存在していると理解するとき、私たちは時間であっても、それが存在し、現在があると感じているのは、私たちがその機能により認識を獲得するからではないか。獲得した認識は世界の姿の全容ではない。単に私たちが捉えた枠組みが映し出された結果である。現在といった時間もそれが実際に存在するというよりか、私たちがそう認識することで生じた結果ではないか。いま現在とは、私たちの認識の結果により生じている。時間はその実際においては、どうあるのか。私たちは私たちの素朴な認識を超えていけるだろうか。