その12

 ひとつのりんごはそれ以上分割できないと考えるときに、りんごはりんごであることを全うする。りんごとは何かといった問いは、りんごを分割しかねない。りんごは問い以前の実在として、疑いの一切を遮って存在する。何もが疑いと関わりをもたないときそのものであることが明らかにある。私たちは問うが問いがそのものを難解化する。私たちは問うことで何を知りたいのか。問うことでそのものから遠ざかっていくと考えられるにも関わらず、問うこととは何か。問いの答えは問うた対象に対する答えだろうか。

 そものもが問い以前の解である。問うことで見出したいのはそのものの姿である。そのものの姿が浮かび上がってこないから問うのだろうか。りんごのありのままを私たちは知らない。私たちにとってのりんごとはりんごのイメージでしかない。どれほどの凝視でもりんごの真実が浮かび上がってくることはない。それ故に私たちはりんごとは何かと問うのか。問うて見えてくることはロゴスであり、そのものの真実の姿ではない。