その11

 私たちの知らない世界が必ずある。存在する限りのすべてを知っていない私たちは、世界にとっての断片でしかない。断片である私たちにとって、私たちの生んだ概念である世界とは何か。存在する限りのすべてを世界としたとき、現在ばかりではなく、過去もまた世界に含まれる。予測された未来は予測といった形態で実在するが、明日はやはりやってきてから初めて実在すると考えられる。世界とはその消滅も含んだ現象体である。明日がやってくる可能性は100%ではない。やってくれば起こることは予め存在する。

 その通りのことが起こったとき、予想はあたったのか。それとも偶然、予測と現実が被ったのか。現実を元に予測されたことがその通りに起こったとき、その理由の明白さは、予測の正確性とその実在を証拠づける。流れのなかにある世界を紐解けば、未来が流れの向こうにみえるのではないか。連続する部分は推測可能ではないか。単に推測をすることではなく、明確な理由を元にした推測が推測の意味である。

 世界が消えてしまう推測も理由を元にしたうえで、可能である。実際に消えた世界は認識主体が不在であり、推測があたったかどうかの判断は下せない。消えた世界には誰もいないが、誰もいないことを誰も知らない。世界が消えたとき、誰も消えたことを知らない。消えた自分も消えたことを知らないのではないか。次第に消えていくことはない。消えるのは一瞬で消える。世界はあるか、ないかである。あるならある。ないなら、まったくなにもない。排中立にある。

 存在するか、しないのか。りんごがあるのか、ないのか。りんごの皮しかないときりんごはあるのかを考えたとき、そこにあるは論争的実在であり、結論はない。定義不能の実在がある。定義をすることで定義ができなくなる。定義しなければ事実がない。定義を持つ世界と定義を持たない世界が一つの世界にある。さらには定義不全の論争的な世界もある。りんごではなく、何かがそこにあるか、いなかであれば、排中立である。あるか、ないか。それだけならいいが、それが何かを問い出すと答えに窮する現象をこの世界はもつ。りんごとは何か。ただそこにあるものが何であるかが問いになるのは、私たちが分類をしようとすることで生じる慣性ではないか。