その653

 世界の運動のうちで認識が安定しないのに加え、世界の運動のうちで物質的に個体が安定しないのがある。個体のどの瞬間を取り出しても、その固定にはない。固定点を持たない物質は、その流れにある。流れは流れているのであり、変化にある。変化し続ける個体は、その実態として、いつ、どこに、あるのだろうか。

 いま目の前にあるりんごは一体、どこ、にあるのだろうか。りんごをずっと手で触れているとき、触れているりんごは、いつ、のりんごなのだろうか。りんごと手はまさしく接触し、接触している間中、その時間の経過にある。接触しているその状況それ自体の変化が時の流れを示している。変化にあるりんごと手の接触部分は、いつの話なのかとなった時、ある特定の時刻から、ある特定の時刻までの間における時刻経過の話となるのか。つまり、個体のように時刻もその領域が設定されているのか。その領域とは一瞬のことか。一瞬とは何か。一瞬には始まりがあって、終わりがあるのか。

その650

 世界はなぜ部分で語り得るのか。世界は部分では実在しないが、その説明であれば部分として成立する。部分として成立する説明は、その他について十分語られた後の説明として成立しているのか。説明外の説明もまた説明外で成立していて、説明内の意味内容と関連していることで、説明外の説明は言語によって明示されずとも、その意味を暗に示しているのか。つまり、語られていないことはその全てが暗に示されているのか。

その649

 世界を語るとき、さまざまな角度からの語りがある。説明がある。それらを自然なかたちで繋げて、ひと繋がりにすることは果たして可能か。たとえば、文学の中に物理法則を加えていった時、破綻することなく物語を紡ぐことができるか。文化人類学社会学がうまく折り合って、落とし所を見つけたような話を進めることができるか。いくつもの分野の話が整合的でないのであれば、整合させることが必要なのではないか。それぞれの分野でそのように言えることが、世界内での話として通らないといけない。世界は一通りしかないはずだから、話も本来であれば、ひと繋がりで済ませることが原理的には可能なような気がしてならない。

 

その648

 世界について語ることが世界全体を語ることを意味するのではない。世界を語るとは、世界がどのようにできているか手探りをしつつ語るのだ。世界のすべてを語ることができるのではない。世界にある何かを語ることで世界がどのようにあるのか、その足がかりとなる。さまざまなことを元に語られる世界は、それらさまざまな語りを集めていくと、一つの話になるのだろうか。この世界は一つの話として語られるだろうか。

その647

 この頭がこの世界にあることで、この頭の中が世界にある。世界について語る頭がその世界の中にあるというのは、本来ある世界はそれ自体がそのようにあることですでに語っているようなところへ、この頭の中で世界が語られることを意味する。頭が世界を語ろうとも、それ以前に世界はそれ自体としてある。あるようにあるその世界を頭が捉えて語ろうとする時、語っていることの意味とは何か。目の前にりんごがあるとして、そのりんごについて語るとき、我々は何を語っているのだろうか。りんごの成分について語るとき、それは世界について語ることかもしれない。あるリンゴのことだけを語ったとしても、それは世界について語ったことになる。あるりんごについての語りがあるりんごだけのことではないからだ。しかし、なぜ何かを語れば、それが世界について語ったことになるのか。