その336

 無限は認識可能だろうか。頭の中や記号などでそのイメージを具現化することがあっても、頭の中や記号ではない実際の無限を捉えることはできるのか。果てのなさを無限としたとき、果てのないものをどうやって認識することが可能か。認識とは果てがあるから可能なのではないか。

 無限を感じることがあるかもしれない。確かに、果てしなく続くその動きをイメージし、実際にそれがあるような感覚を得ることがある。限界を取っ払ったうえで、何かがある感覚。しかし、それだとそれは何かであることが可能だろうか。何かではない存在がどこかにあると考えることができても、それを認識することができないなら、それがあるとは認められない。単に、頭の中でこしらえられたイメージに過ぎないとしても、そう考えた結果がたしかに存在にとして実在する事実は認めざるを得ない。ただそれでも、その無限を指し示して認識することができない。果てのなさとは何か。終わりがあるから何かがある。その枠組みがあることで何かがある。枠組みには果てがある。果てのなさそれ自体が実在するだろうか。存在はつねに何かとしてしか実在しないのではないか。何でもないものが実在するだろうか。ただの流れのようなものであっても、それは何かであり、その果がある。やがて消えるものには果てがある。永遠に消えることのない何かがあるならそれは無限だろうが、無限かも知れないものを実際に無限かどうか確かめることはできない。無限それ自体にとってしか無限を感じることができないなら、人間が無限と感じているその感覚は妄想に過ぎないのかもしれない。