その273

 エネルギーとは、それ自体であり、かつ、その外部への働きかけである。エネルギーはそれ自体が運動であるが、かつ、運動の原因にもなる。エネルギーだけがあっても、それは動かない可能性がある。あるエネルギーはそれが反応することで、エネルギーの役割をはたす。何にでも反応するわけではない。あるエネルギーは相応の対応関係にある。

 意図的にエネルギーを送り込んで動くものはそれ自体の反応においては自然である。そうなるようになっていることとは自然ではないか。人間がやったからといってもそれですべてが不自然というのではない。人間のやっていることは自然でははないか。万物は自然現象のうちにあるのではないか。あるがままある。起こっていることが起こっている。どこまでいっても自然にそう起こっているのではないか。それは全てが必然であるとは言えない。必然であることと自然であることは違う。起こるべくして起こることによって存在のすべてができあがっているなら、それは決定論だが、自然に起こっていることとは、存在相互の反応において、起こるべくして起こることが起こっているのであり、起こらないことは起こらないことを意味する。起こっていることの裏には起こらないことがある。何が起こっているかばかりに着目することなく、何が起こっていないかにも着目したい。起こっていることの総体が存在だが、その裏には起こっていないこと、起こり得ないことがある。何かが起こらなかったことで起こったことがある。何かが起こるのはその他を拒絶するからではないか。他の可能性を拒絶することで、起こることがおこっているのではないか。そうなることはそうならない可能性もあったがゆえか。そうならないからそうなったのか。どうなるか。それは現象が初めから決まっているのか。存在の要素はいくつもある。そのうちの反応関係が複数あるとき、いずれかに落ち着くことになるか、複合的な反応となる。単一と思われる現象を紐解いていくと、その原因はその外部にもある。そう考えると、単一さは否定される。起こったことそれ自体が単一と考えられる現象であっても、その原因は複合的である。

 つまり、起こったことだけで存在はできあがっているのではないのかもしれない。私たちに内在する精神が存在の一部であり、かつそれがいかに作動し存在のうちにあるかを考えたとき、起こっていることがそれほど単純ではなくなる。精神内部で起こっていることは計り知れないほどの複雑さにある。結果的にアウトプットされた言葉が精神のすべてではないのは言うまでもない。捉えきれない複雑さがこの存在のうちにある精神には宿されているのではないか。それは、脳内の物質的な現象のすべてを含む。それだけではない。存在がいかにあるかが精神との関わりにある。精神は存在について、その意味を捉えようとする。いかなる意味があるか、それは捉えようもないほどの複雑さにある存在に対峙する私たちの精神にその底はない。行きている間に磨き上げられる。そのうちにあることが言葉になる。その言葉がすべてではない。