その267

 運動するもののうちに結論を見出すことは可能か。それが何であれ、それはその移ろいにある。空っていく何かがどうであるか、その結論は出せないのではないか。どの瞬間かを取り出すことで、その結論に変えることはできない。移ろいの先端がそれではあるのか。存在する物にはその果てがあるのか。あるのかもしれない。認識できないだけで、存在する物にはその果てがあるのかもしれない。ならば、存在するすべての物が含まれた世界において、その果てがあると言うことができるのか。できるとしても、認識はできない。認識できることだけが事実ではない。認識不可能でも事実としてあることはいくらでもある。知り得ないことが知り得たこととの関わりにある。知り得たこととは何か。知り得なかったことはどのようなことであったかを知り得ない。知り得たことがいかなることであるか、その意味についてどこまで知り得ているのか。

 私は、存在する物の移ろいの突端にいまいるのか。つねにそういった最新の状況に私はいるのか。私のいる位置は常に存在の果てなのか。最先端なのか。突端なのか。私だけではない。存在する物事の全てがその最先端にあるのか。存在に果てがあり、その向こうには何もないのか。引き続き存在は続いていく。エネルギーが存在の姿を変えていくことで存在の果てはその先へと伸びていく。常に突端にある万物はその拡張か収縮か、あるいは、その同時的な変動により、カオスの様相にあるのか。