その215

認識していることがあっても、それが存在のすべてを捉えて、あてはまるかどうか、それは簡単には明らかとならない。どうやることで確証を得ることができるのかについて、そのためには私たちが存在の全体をその限界まで把握しない限り、明らかとはならない。存在の全体の像の具体ではなく、その輪郭さえ明確にわかるなら、認識したことの妥当性が少なくとも部分的に真であるのか、全体において真であることなのかが判明する。

 真であるか否かについては、全体に対して真であることばかりが真であるのではない。部分的に真であっても、真である。真であるかどうかは、何が真であるかであり、何との関係性のうえで真であるかどうかである。存在の部分において真であることと、存在の全体において真であることは、同時に真である。真であることは真でありさえすれば真である。

 全体としての真はそのうちに部分における真を含むのか。全体とはその成立のためにさまざまケースがある。部分的に真であるとき、真であるとは、その部分における全体として真である。つまり、真であるとは存在を限定し、それが真であるとはその全体であることを意味する。真であるとはその真であるといった意味をそのうちにおいて完全に全うするのであるのだから、真であるといった意味はその全体である。

 存在の全体は分からないとき、いかなる真も部分的に真である可能性を帯びる。全体がそれ以上ない広がりにおける全体であるかどうかは、可能性でしかないのではないか。存在を物質的な次元で捉えたとき、その全体像がはっきりと認識されるためにどういった確証を得るなら、その成立となるのか判明することがあるのか。それよりか、徹底的に分からないことのほうが判明するのではないか。私たちは認識するがその認識が当てはまる時空は認識のうちにしかなく、それ以上に存在は広がりを持つ可能性が常にあることを誰が否定することが可能だろうか。永遠に分からないことがあるとき、全体はつねに不可知である。