その214

 出来事の総体が存在のすべてであるとしたとき、そのあり方における原因に考えられることとは何か。どんな現象が起こっているのか。あまたある現象のうちに私たちの認識が関わっていることがある。起こることは起こるが、いかに起こったかについてはそれぞれある。起こったことを遡れば、私たちの関与があったことと、私たちの関与がまったくなかったことがある。

 私たちの関与なしに起こった事は確かに存在するが、それはその領域においてそうであるに過ぎない。つまり、どれだけの時間の長さをもった領域として捉えるかで、関与のある無しが発生する。ということは、認識をいかにするかが、関与のあるなしを決定づけるのであり、認識次第で存在において起こっていることの捉え方が変わってくる。起こっていることは起こっているのであり、それはいかに認識するかとの関わりにはない。認識が存在のあり方を決定づけるのではない。まず先に起こっていることがある。起こっていることは私たちの認識の関与を経たうえで起こっていることがあるが、そういった現象も含み込んだうえで、起こっていることの全体があるのであり、起こっていることの全体は私たちをその一部とし、あるいは、存在の機能として捉えられる。

 存在はそのすべてが壮大なる反応系であると考えるなら、私たちの存在がもたらされる結果がある。私たちの存在もまた存在の側からの働きかけの結果でもある。すべては相互依存にあり、何かが単独で存在することはあり得ない。周囲がゼロの何かが実在することはない。

 私たちの認識は存在の網の目のなかに刻まれている。すべてを情報として実在する存在において私たちの認識もまた存在にとっての情報であり、その情報をもとに変化する存在のあり方がある。存在とは情報の変化する数値である側面がある。存在のすべてではないかもしれないが、存在はその数値の変容によりその流れを変えていくのではないか。私たちの把握可能な数値ではないかもしれない。常なる変容にあるのだから、止まっていない数値をそのまま把握することなどできるだろうか。動いているものは動いているのか、いないのか。動いているものをそのまま把握するためには認識そのものが動いていないといけない。動いているものを数値に置き換えたとき、置き換え不可能性が発生することにならないか。置き換え不可能な存在のありのままとは私たちにとって闇である。見えていても、捉え切っているわけではない。存在に対して私たちの認識はどこまで有用だろうか。置き換え可能性はどこまであるのか。どこからが絶対に置き換え不可能となるのか。認識可能性は存在のすべてと同期しない。永遠の闇のなかにある私たちは、認識可能性を存在のすべてに対して拡張することはできない。存在のある部分までしか認識できない。部分的認識が認識の実質であると考えたとき、私たちは永遠の無知にある。全体とは何か。存在すると措定できても、認識には置き換えることができない。存在するのはつねに認識可能性であり、どこまで認識できるかが問われているに過ぎない。認識とは全体を認識するものではなく、どこまで認識できているかが問われているのである。