その213

 私たちの認識とは固有の認識であり、存在の一部をなす。存在についての理解のためになされる認識が存在の一部であるとはどういった状況を説明するのか。認識不在でも存在はある。認識が不在な存在と認識が存在するうえでの存在とは何が違うか。認識が存在のあり方にいかなる影響を与えるか。認識されたことがもとになって存在に変化が加えられる。それは意図的にそうだ。認識が存在しなければ、なされたかった企てがある。認識がきっかけとならずとも、存在には変化がある。私たちがいるだけでその影響はある。認識とはその思考であり、存在についての深い理解であるとき、その思考を経た行為がある。深い認識を経ていない行為と深い認識を経た行為があることを比べたとき、その違いは、結果的に何かあると言えるだろうか。存在が単に変化したことだけではないか。認識の結果を意図的に用いたうえでなされた行為であれ、何の考えもなく行われたことであれ、変化は変化であり、物質的な次元で考えたとき、それは結果的に変化したことだけを意味するのか。いや、存在についての理解があったうえでの行為は存在に沿う。存在の流れにそった行為のほうが存在の流れに沿っていない行為よりか、何かが違う。何が違うのか。