その47

 質とは量では把握できない何かであり、運動する物質と私たちの認識機能との関係性における現れである。私たちがりんごを見たとき、りんごの姿が浮かんでくるが、りんごの姿は方時も止まっていないので、私たちがみているのは、運動するりんごの姿であることの間違いはない。運動するりんごの姿を見ている私たちの機能もまた運動であるのだから、相互の運動が出会ったところに現れるのがりんごの質感である。りんごの質感は私たちの側のみ属するりんごの性質であり、りんごそのものには物質的な次元で備わっていない。りんごの質感は私たちに帰属する物質の運動性である。

 いわば、動きを動きで捉えようとするときに生じる摩擦のような作用が質感ではないか。私たちが捉えるりんごはいつもどこか滲んでいる。認識機能が捉えようとするりんごのほんとうは、認識機能の外にあるのではないか。それでも認識しようとするとき、認識の外にも広がっているりんごの姿は私たちの認識のうちに収まろうとしてはみ出していく。その運動とともに知ろうとするりんごから私たちの側に浮かび上がってくるりんごがもつ姿のことをりんごの質感となり、それは私たちが知ることのできるりんごの最終的な姿のことではないか。高速で動くりんごは私たちの認識機能を超えた存在ではないか。それでも認識を試みる時に浮かんでくるのがりんごの質感ではないか。