その571

それ以上にあることの意味をどこかで止める。いや、止まる。止まったところで成立するのが合理性ではないか。それ以上に意味はあるが、あるところでその意味の広がりが停止する。自然と停止した箇所において合理性がある。合理的であるかどうかは本来、理屈…

その570

存在全般に対して行われる認識はそのすべてが存在全般を限定する。同一の物質は認識次第でいくつもの断片に置き換わる。何かが認識されるとき、その何かがいかにあるか、それは認識主体の数だけある。認識主体と認識対象はいずれもが主体であり、その関係性…

その569

人間にとって価値のあるものと、ライオンにとって価値のあるものは違う。関係性だけがある。関係したとき、その関係における主体はどっちか。つまり、ある人間にとって関係する何かは、ある人間が主体なのか、その関係する何かが主体なのか。いずれもが主体…

その568

価値の優劣はそのすべてが認識内における現象だ。意識をもつあらゆる実在がその認識を行うときに、価値の高い何かとそうでない何かに選別する。選別されることで価値が発生する。何かの現象にとって価値がないようなものも、何かの現象にとっては価値がある…

その567

思考それ自体その内容を物質と捉えたとき、思考という運動によって生み出される思考内容があり、その内容は一個のりんごが生み出されるようにして実在する。思考それ自体は一生のうちで一つながりの流れにあっても、そうした思考が生み出す痕跡は物質的には…

その566

あるということは、できごとが起こっていることを意味する。では、あるから起こるのか、起こるからあるのか。いや、どっちが先にあるかの話ではない。あるということは何かが起こっていることを意味し、何かが起こっているということは何かがあることを意味…

その565

無とは有にとっての無となる。なぜなら、言語化しようとするなら、それはつまり有の側からの論理となる他はない。そのとき無とは、何かが起こっている世界に対して、無も起こっていないことを意味する。何も起こっていない、そうした現象が起こっている。何…

その564

何もない、そのなさが原因となって、何かが生じること。それは常に起こっているのではないか。有は常にその背後に無がある。何かしらの無があり、それ故に有にはその先がある。であれば、無は有の原因だが、エネルギーである有の原因の無もまたエネルギーな…

その563

何かがあれば、その原因があるとき、存在はその原因をどこまで遡っても、その原因があり、根源にたどり着かない。それ以上原因のない何か。それはただある何かとなるが、何かがただあることはできない。あるものはすべてがその外部との関わりにある。いやそ…

その562

何かの根っこが一元的にあるのかどうか。何かがあることと他の何かの原因が同一かどうか。何かという具体性の実在は、無限拡散するエネルギーを押し留めようとする力である閉鎖力によって生じているのではないか。姿形のない無限拡散状態のエネルギーを封じ…

その561

何かであるといったことは、そうした現象それ自体であるといったことだ。そうした現象がなぜそのように起こっているかとなれば、まず先にあるのがその何かの外部か。外部環境が適切でないとき、その何かは実在できない。なぜ氷が氷であるか。それは温度とい…

その560

水が氷になるとき、水のすべてが氷になるのではない。水の何かが氷が氷になるときに氷以外の何かになる。水が氷になるとき、水が生み出しているものは氷だけではない。水は水であって、氷は氷だ。その連続性はあるが、水が氷になるときに外部に排出される要…

その595

何かがあって、他の何かと反応するための用意があっても、他の何か、そのすべてと反応し合うのではない。何かと何かの反応は、部分的であり、全的反応はほぼあり得ないのではないか。何かと何かが反応できるのは、相互に何かを抽出し合っているからではない…

その594

何かが何かと反応するためには、何かと反応するための空間が必要となる。空間ができたところに何かが入り込み、反応する。むろん、空間ができたといっても、何もない場を意味するのではない。では、何かがある空間ができるとは、どういった意味か。運動する…

その593

一瞬のうちに増減がある。増加だけではない。減少も起こる。何かが何かと繋がるためには何かを切り離す必要がある場合がある。単に、繋がるための空間を用意するために何かを切り離すことで何かと繋がれる。それであれば、繋がる以前に切断がある。切断があ…

その592

すべてがつながった状態とは、不自然で、そうなると何も動かない。何かが動くのはそれを許容する状態に空間があるからではないか。すべてはつながっておらず、つながっている部分がさらにつながっていこうと動いていき、同時に、つながっていた何か同士はそ…

その591

関係のなさもまた関係性のうちであり、なんでもかんでも関係していることが関係性ではない。関係のあり方がいかにあるか。それはすべてが関係していることを意味するのではない。関係があり、関係がない。何かと関係があったとき、同時に、何かと関係がない…

その590

何かがある。あるもののうちで相互に非接触的な何か、つまり、無関係である何か。同一の世界にあったとしても、同一の世界にあることで即座にそれらすべてが関係し合っているかどうか。すべてがすべて関係し合っているなら、何も動かない。関係するといった…

その589

震えによって生じるエネルギーの原因を差し向き、意味としたとき、意味によって存在は震え、エネルギーが発生している。意味が震えているのではない。意味があるから何かが震えるのだ。そのときの意味とは何か。言語ならざる実態をして意味という他はないの…

その588

時間は何に属するか。時間の依存先があるはずだ。時間だけがあっても実在し得ない。りんごがあるように時間があり、りんごがなぜあるのかそのわけがあるように、時間がなぜあるのかにもわけがあるのではないか。りんごはいくつもこの世界に発生してきた。そ…

その587

無限拡散しているだけの世界であれば、何一つとして具体はない。拡散はしていても、この世界に具体があるその訳は、この世界にあまねく閉ざす力が働いているからだ。そうでなければ、生じた一点はひたすらに拡張していく。ひたすらに拡張することなく、何か…

その586

何かがあれば世界はある。ごくわずかにであってもだ。ごくわずかにでも何かがあれば、それは世界だ。大きいから世界というのではない。ごくわずかな小さな存在であっても、それがあれば世界は存在する。むろん、私たちは世界がいかにあるかを模索しているの…

その585

世界の外部にエネルギーがあり、世界の外部から世界へとエネルギーが与えられているのでない限り、世界はそれ自体がエネルギーである。エネルギーとはすなわち運動のことであり、運動は、ただ何かがあることにおいて生じる現象であり、ただ何かがあればそれ…

その584

円の軌道がかりにあったとして、それはエネルギーにより出来ている。円の起動は理論上は無限だが、その実在のためにはエネルギーが必要となる。無限のエネルギーがあるかどうかそれは知らない。いや、無限のエネルギーはないといった方が適当だ。ありとあら…

その583

言うまでもなく、認識がそのようであるから世界がそのように動くのではない。世界は動くように動いている。むろん、我々人類が世界の運動に影響を与えてはいるが、その影響は世界にとって本質的なことではない。世界がいかなる運動にあるか、それは何かがあ…

その582

仮に永遠に時間が続くとしても、その時間が次の瞬間を失うことなく実在していることを先回りして認識する主体はない。単に終わることのない時間が流れていると何かしらの主体が信じている。時間が永遠かどうかは信仰の問題ではない。その様にあればそのよう…

その581

πには始まりがあって、終わりがない。始まりがあるπとはいかなる実在か。無限とは、その終わりについて述べるだけではない。始まりがあっては、無限ではないのではないか。際限がないものに際限である始まりがあっては、都合が悪い。始まりもなければ終わり…

その580

閉ざされていること、それゆえに起こる現象を閉ざす力によって理解しているのが実情ではないか。認識対象だけが閉ざされているだけではなく、認識それ自体も閉ざすことであり得ている。この世界のうちにある何かで一つでも閉ざされていないことはあるのだろ…

その579

さらなる関係にあるにも関わらず、その関係を除外した上で成立する認識とは、いかなる存在か。認識Aが成立するためには、さらにあるはずの関係性を除外する必要があるのか。除外する力が働くこととは、閉ざす力を意味する。閉ざす力によって成立するのが認識…

その578

意識が現実と思うことが時とともに移ろっていく。現実は意識がつくっているといっても過言ではない。意識が現実と思うことは、例えば一生のうちでも変容していく。500年後の現実がいかなるものか、それは意識がどんなことを現実と考えるかによる。 世界をど…