その572

存在はするが構造をもたない何か。そんな物があるか。構造を持たないがあるものはただあるのみか。たとえば、ある構造をもったものがそれ以上の構造を持つことがないとき、それでもそれは構造を持っている。であって、その初めから構造の一切を持つことなく…

その571

ただあるなら、混沌でいい。混沌としていてもあることはできる。あるならなんでもいい。秩序だっているものだけがあるのではない。いや、秩序立っているものだけがあるのか。存在のすべてはミクロにおいても、マクロにおいても構造的にあるのか。構造を持つ…

その570

世界は混沌としているが、同時に、秩序だってもいる。秩序と混沌。いったいどっちが先なのか。秩序の中に混沌があるのか。混沌の中に秩序があるのか。なぜ世界があるのかについてその答えとしてはまずこの世界には秩序があるからと言えるのかもしれない。ま…

その569

すべてがつながったまま、それでも動いているといったことがありえるのかどうか。すべてはつながっておらず、さまざまな関係性が瞬時に更新されていっているのではないか。一瞬のうちにあるすべてはしかし完全に繋がりあっていない。いや、完全に繋がりあっ…

その568

常に新しい関係性が紡がれていっている世界において、そのすべてがつながっているだろうか。関係性が新しくなる時点で、繋がりのあり方が更新されていく。つまり、問われているのは、どのようにつながっているかであり、最初からすべてがつながっているなら…

その567

何か一つでも自在にどこへでもゆける何かがあるだろうか。すべては自らのもつ構造的限界とその外部にある空間的限界によって自由自在に動くことができない。完全なる自在さはあり得ない。存在するすべての方向へ向かうことのできる何かは実在しない。制限付…

その566

あればそれは動く。動くとは何が動くのか。何でも存在していればそれは動き、その動きは個別具体的にある何かに依存して動く。普遍的な運動の仕方があるのではない。それぞれ個別に運動の仕方がある。運動の仕方は何に依存するのか。何かの何が原因となって…

その565

正しさは世界の側にある。世界は判断をしない。ただあるようにあり、それが正しいのだ。世界はいつも正しいが、我々がその正しさを認識できないのだ。いうか、起こっていることなぜそのように起こっているのかについて、なぜそういった問いが発生するのか。…

その564

現実を作っているのは世界であり、認識ではない。認識は出来上がっている世界をなぞる。そういった働きが認識にはある。世界を作っているのは起こっていることであり、起こっていることをそのままなぞっているのが認識だ。世界のあり方と異なった認識は認識…

その563

起こっていることが認識を作っている。認識が起こっていることを作るのではないのは言うまでもない。起こっていることがまず先にあり、それ故にその認識が発生する。認識があるから、そのように起こるのではないのは言うまでもない。そのように起こるからそ…

その562

いかにあるかについては知り得ないが、世界がその全体としてあることは自明。刻々と変化する世界はその有限であり、それ故に全体としてある。全体自体の実在がなければ、世界は存在しない。世界という何かを把握することはできずとも、世界はそれ自体として…

その561

常に何かがあって、何かがないといったとき、何かがないという具体性は、何かがあったことによる。これまで存在していたからあった。あったから、それがない。初めから終わりまでなかった何かは、私たちにとって、あるもないもない。あるかないか、それは何…

その560

世界が無となったとき、それまであった物事はすべて消滅する。やがて消滅するのに存在するものはそのすべてが意味をもっている。やがてすべてが無となるにも関わらず、ある。あることにはその意味ああるが、やがてすべての意味が消滅する。意味が消滅するの…

その589

何一つない瞬間を知覚する主体はいかなる主体であっても実在しない。無とはあらゆる主体の不在を意味する。あるいは、まったく別の意味で、いや別次元で、無の実在は、無という主体の実在だ。無となった世界には何もないが唯一あるのが無という主体だ。この…

その588

無の瞬間に実在する何かはない。永遠にない。無は一切皆空であり、あらゆる実在の否定の上に成り立つ。いや、すべての実在を否定する力など、無にはない。無は一切の力を持たない。あらゆる力を持つことなく、何もない世界。世界と呼ぶこともない何か。何で…

その587

一切皆無それ自体はあるのか?という問い方はしっくりとこない。一切皆無はあってはならない。あるというのは存在するということであり、存在する一切皆無とは、存在する側からの認識となる。存在する側からの認識としての一切皆無には大いなる矛盾がある。…

その586

りんごがある。そのりんごがその周囲と完全に無関係であることはあり得るか。無関係であるなら、そのりんごはそれ自体として孤立してあるが、そういった状況にある何かがあるとは考え難い。何かがどこかにあればそれはつねに絶対的にその周囲との関係にある…

その585

すべての始まりが万物の始まりだろうか。そうとは言える。いや、それはこの世界に確かな始まりがあることを意味する。この世界に確かな始まりがあるなら、それは万物の始まりとなる。しかし、まったく別の次元で、いや、異世界として、世界には始まりも終わ…

その584

未来それ自体はどこにもない。いや、精神の内側にはある。精神の内側は世界の一部だ。世界の一部である精神はこの時空間のいずれかの場それ自体である。精神という場で起こっていること。それは精神の内側で閉ざされていることであり、精神の内側にあった物…

その583

精神内物質とは、その意味するところが精神の内側にしかなく、実際のその意味するところを体験することができないといった存在だ。精神内には確かに実在するが、それは単に観念として実在するに過ぎない。たとえば未来といった観念が確かに精神の中にあって…

その582

存在していて、存在していないものについて、つまりはどこかにあればそれは存在している。どこにあるかとなったとき、頭の中にあるだけのことも存在しているとさしあたりは言う他はない。物質としてそれがあるのと、頭の中にだけ観念としてあるもの。観念と…

その581

起こることはいかに起こるか、起こってみないことには明らかとならない。つまり、未来はいつも明らかではない。実際にあるのかどうかも定かではないのが一瞬先の世界だ。おそらく明日はやってくる。おそらくだ。事実だけが世界を作っているとき、今現在より…

その580

何かがそのようにある、そのことが実在するのは我々の認識内においてであり、何かがそのようにあるのは、そのものだ。むろん、そのものはそのものだが、そのものではない。そのものの外部との関係性のうえでそのものとして実在する。そのものの変化はそのも…

その579

たとえば、一個のりんごがある。そのりんごはりんごであるといったことにおいて完全だ。それは認識内にある一つのこととしては完結しているといった意味で完全だということだ。りんごは認識内にあるのではない。ただそれはある。認識されようがされまいが関…

その578

認識は世界の全体に対して不完全だが、その認識自体は我々にとっては成立しているといった意味で完全だ。完全だから私たちは認識を持つことができる。そうだと思う。なぜ、そうだと直感できるのか。直感とは何か。つねに直感が正しいわけではないとき、直感…

その577

認識外の何かと関係していることは確かだが、それが認識外にあるのだから、はっきりとしない。わからないからないというのは絶対に違う。わからなくとも、つながっていることとはつながっている。つながっているから実在している。実在の要因のすべては明ら…

その576

現実は言葉以上の何か。いや、言葉を含んだそれ以上の何か。川があって水が流れているように、雨が降っているように、言葉がある。その存在としての価値は、雨も川も言葉も同一ではないか。いや、同一というよりか、価値に優劣がないといった方が適当。確か…

その575

ある事実があり、それを確信していようと、確信していまいと、その事実はそのようである。そのようであるといったことが確信的であったとして、それがまさにそうであったとしても、その確信がほんとうに確信であったのかどうか。絶対そうだと思う感情にどこ…

その574

主観はそのいずれもがその時点における真実である。その主観がそれぞれにおいて正しいか否かはまた別の話だ。ただ、あることをそのように主観することとそれ自体がそのようにあることは疑いようのない事実であり、それを真実を呼んでも差し支えない。真実と…

その573

合理性が我々を媒介としたとき、世界に起こっている現象を表現する。合理性があるから、我々は世界を理解することができる。あることをあると認識するのではない。ある世界がいかにあるか、それを認識するための機能としてあるのが合理性だ。合理性とはつま…