その280

無は一切の記述を受け付けない。何もないことを言葉で捉えることはできない。何もないことがどういうことなのか、それは説明することではない。ひたすらに何もない。何もないといえば、何かがあることの裏返しになる。いや、何もない。ただそれだけのことか…

その279

なぜ動くのか。なぜ動かないのではなく、動くのか。そこにあるものがそこにあるだけで動いているのは、存在がそれ自体、運動する物質であるからだ。うごかないものはない。うごかないものは存在し得ない。動くからあるのではなく、動くためのエネルギーが存…

その278

繰り返されることがある一方で、何も繰り返されることはないともいうことができる。どちらも相応の正しさがあり、非反復性のうちに反復がある状況とは何か。繰り返されることはないといったとき、厳密には、いかなる反復もその細部においては同一ではないこ…

その277

1分前の世界に触れることはできない。今触れているコップは今あるコップであり、つねに今あるコップを持っている。10秒前のコップではない。今あるコップしか手に持つことはできない。持っているコップは昨日もあった。そのコップに関わった昨日の全てがその…

その276

存在それ自体において、今を意味する地点だけが実在するだけでは、存在それ自体が実在しないと考えられる。存在それ自体はその時間軸といかに関わり合って実在しているのか。時間軸の存在がいかにあるのか。今だけがあるようでは、存在は存在として実在し得…

その275

一本の道があり、そのうえを歩く人がいるとして、歩く人はその歩いている場において、その現在にある。しかし、現在とは、その人にとってのことばかりではない。現在とはどこまでを含むのか。時空の歪みから、道のあらゆる地点において、その今がいつなのか…

その274

何があるのか。あるものはすべてある。ないものはない。なくともあるようになる。あるものもなくなる。あるかないか。認識内において、ある、や、ない、とする場合、領域が設定された話になる。認識内においてあるのであり、ないのである。それは認識内存在…

その273

エネルギーとは、それ自体であり、かつ、その外部への働きかけである。エネルギーはそれ自体が運動であるが、かつ、運動の原因にもなる。エネルギーだけがあっても、それは動かない可能性がある。あるエネルギーはそれが反応することで、エネルギーの役割を…

その272

言葉になっていなくとも、起こっていることがある。あるというか、ほぼすべてが言葉になることなく、起こっている。起こっている何かのなかに言葉がある。言葉があるから起こっているのではないのは言うまでもない。起こっていることが起こっている中で、そ…

その271

どこにもない何か。それが可能性として考えられたとき、頭の中にそれはある。頭のなかにある状況において、それが外部化されないことがある。言葉にならずとも、考えられた痕跡が頭のなかにある可能性がある。はっきりとしないが、あるかもしれないものがあ…

その270

無限とは何か。認識を超えた実在でも、その有限にある可能性がある。認識の外がどうなっているか、わからないとき、存在はその無限なのか有限なのかはっきりとさせることができない。しかし、無限といった観念からイメージされることが実在であるとは考え難…

その269

関係のない何かがある。存在する何もがその関連にあるのではないのではないか。何かに焦点を絞ったとき、その何かに関与していることがいくつもあるのだろうが、存在の地平には、関わり合っている状況と関わり合っていない状況が同時にあるのではないか。あ…

その268

存在はカオスに存在するわけではないのではないか。私たちの認識においてカオスといった現象が起こるのではないか。存在はその形式にある。現在は少なくともそうしたあり方にある。形式を失った存在の仕方がカオスである。何かしらがそのようにあるとき、そ…

その267

運動するもののうちに結論を見出すことは可能か。それが何であれ、それはその移ろいにある。空っていく何かがどうであるか、その結論は出せないのではないか。どの瞬間かを取り出すことで、その結論に変えることはできない。移ろいの先端がそれではあるのか…

その266

何かがある。それは単一にあることはできない。単一にあるものがあるはずがない。単一であるとき、それはそれ以上動こうとしない。動く何かはその複合にある。それだけがあるのではなく、それがあるためにはその他がある。その他とそれがある。それゆえに、…

その265

現実はどれほど言葉によって決定されるのか。言葉が確かに現実を捉え、その意味を言語空間のなかに表現する。それをやっているのは人間であり、人間はみずからが生み出す言語空間との関わりにある。関わりにあるというよりか、その存在自体が言語空間内にお…

その264

物質として存在するものがそれぞれに分かれているとき、その明確な境目はどのようにあるのか。りんごとバナナは確かに違うが、私たちとってはそれは同一の果物といった部類になると認識される。その認識とは普遍的なのか。普遍とは何か。私たちにとって普遍…

その263

起こっていることのうちで何か一つでも不自然なことがあるだろうか。起こっていることはそのすべてが自然ではないか。自然に起こっていることをその自然のまま理解することができるか。自然とはありのままのことであり、それはいわゆる人工的な現象も含まれ…

その262

それぞれが異なる差異を内包しつつも、何かしらの固定点を秘めた実在がある。一個の形式があり、それを元に差異が表現される。形式なき実在は何かあるのか。一切の形式を持つことのない何かが実在することは可能なのか。固定点を持たない何かとは、カオスで…

その261

存在の関係性にいて考えたとき、表と裏が相互にその関連にある場合と表と裏が相互にその関連にない場合もまたあるのではと全章で述べてきた。一個の定点を定め、かつ、その運動を追いかけたとき、その点と関係にあることがいくつもあって、関係のないことも…

その260

性質の異なったもの同士はそれが同じ地平のうちにあっても、互いに関連しない。そのような実在がたとえば、地球といった同一の地平に存在することがありうるか。非関連的な実在が地球上にあるとは考えがたい。相互に何らかの反応を示すものばかりだ。しかし…

その259

存在の性質から考えると、存在するものは何かしらその類似にあると考えるのが妥当ではないか。存在の性質がピュシスとしてまずある。その性質をもとにできあがることでしかないとき、存在は何かしらの類似にあるより他はない。 ピュシスを元にできあがる何か…

その258

論理が捉える存在の仕方について、その運動はその関係にない。論理が捉えた存在の仕方とはそのシシテムであり、その運動は別の話となる。システムはそれでも動く。動かないシステムは存在しない。いかに動くかの流れがシステムとして捉えられたのだ。細部は…

その257

認識は言語に置き換わることで、その対象となったこととどこまで整合的か。言語の限界を超えることのできない認識は言語内存在である。存在は言語を超えた姿であるはずであり、存在はすべからく、その本来においては言語外存在である。言語のうちに閉じられ…

その256

客観もまた、認識主体がもつ枠組みに依存したもので、枠組み自体が主観的であるのだから、客観もまた主観であると言うより他はない。普遍であるとしても、それは認識主体の生きる認識のうちにおいてのことである。 理解可能性をもとに現実が決定されていく側…

その255

1とは何か。存在の根源か。何かがあるためには、1が起因せずには、その実在は不可能か。何かとはつまり、具体である。1といった確実さがなければ、何一つとして具体はない。無ではないが、その具体のない存在の広がりにおいて、あるのはひたすらなるカオ…

その254

起こったことはその決定にある。起こったことから明らかになっていく。起こったこととは何か。結果的にそうしたことが起こったことの意味とは何か。その過去において、起こったことの原因があったのか。蛇口を捻って水がでたとき、水がでるまえに蛇口がひね…

その253

起こっていることのすべてが自然であっても、それらすべてが必然として起こっているのではない。必然とは何か。必ずそうなることか。であれば、必然に込められた意味には、私たちの推論がある。その初めにおいて、すべてが明白ではない世界を生きるうえで、…

その252

あることがそのようにしてあることに対して、それをしらないからといっても、そのあり方自体に変わりはない。何かを知ることで、存在に対して働きかけをすることが考えられ、それゆえに、何かしらの知は存在それ自体であり、かつ、物質レベルで働き掛けをす…

その251

それが正しければ真理であり、かつ、それがどうあろうと、存在がそのままそのようにあること自体、それは疑いようのないことであり、存在即真理であると言えないか。存在即真理とは、何かがそこにあることが真理を物語っているといった意味であり、それは言…