その332

 認識をとっぱらえば、何も認識できないことになる。理論上ではそうだ。認識しようとするから認識されるのだろうし、それは無意識にも認識しようとしていることを含んだうえでの話だ。認識しようとしなくても、あるものはあるし、ないものはない。ただ、あるとないの間があるように感じられるが、それは認識しようとするからだろうか。あるものがあって、ないものがないのでなければ、あるのにないことになり、ないのにあることになる。あるのかないのか、その中間領域について私たちは考えてしまう。あるようでいてないのか、ないようでいてあるのか。それはただ事物が存在するか否かを意味するばかりではなく、現象として起こっているのか、起こっていないのかについてもあてはまる。

 あるものがあって、ないものは徹頭徹尾ないと断言できるのは存在を完全に俯瞰できる神のような存在だけではないか。神でなければ、自然だろうか。あることがありのままにあることを意味する自然において、ないものはないが、あるものはある。

 

その331

 起こっていることがそれ自体として純粋に存在することはないのではないか。どんなことが起こっているのかは、ある角度から捉えられる。同時に他の角度からの捉え方が成立するとき、いずれが真実かといった問いは無効である。いずれもが真実である。

 起こっていることの純粋さは実質的に実在するはずであるが、その純粋さを純粋なまま捉えることができない。存在するものごとはそのすべてが純粋にあるはずだが、その純粋さを捉えることのできない私たちの認識はだからといって純粋ではないというのではない。ある角度からきちんと捉えられ、かつ、それが認識主体との関係においてはっきりと成立する意味で、どんな主体をもとにした認識もそれがそれ自体として正しいのであれば純粋である。

 起こっていることそれ自体が起こっていることを純粋に表している。それは認識以前の純粋さだ。認識以前にあるできごとは認識による加工を一切施されることのない純粋さにある。ただそれは認識以前にあることから認識されない。認識されないから存在しないのではない。認識するから存在するのでもない。存在するものがただひたすらに存在している。それは極めて純粋に起こっている。

その330

 場とはいえ、それは点ではない広がりである。広がりである以上、その領域内では波としてなにかが実在する。同時に二つの点は打てない。一つの点も打てないのではない。しかし、場を定めて考えることがある。場とはたとえば、一個のりんごのことだ。一個のりんごとしてこの時空間に場を定める。疑いようのない場がりんごの姿としてある。個別の現象が起こっているところのことを場と考えたい。どのりんごも個別の現象であり、それは場である。一個のりんごを個別の現象とするか、場とするかで、認識のあり方に違いがある。しかし、実質的に起こっていることが起こっているのであって、それがどのように起こっているかを捉えるときに、場と捉えるか、個別の現象と捉えるかで、あくまでも私たちの認識のなかで違いが生まれるに過ぎない。それは一個のりんごをどう見るかの違いである。どこにフォーカスを絞るか、その違いが認識の違いを生む。起こっていることが起こっているに過ぎないが、その起こっていることのどこを取り出して観察するか、その違いが、場と捉えるか、個別の現象と捉えるかの違いにはある。

その329

 時間の流れがまずあって、それはひたすらに流れているとする。そのときに、時間だけがあるのではなく、何かしら時間を制御する力が働く。しかし、それもまた時間の影響下にあるのか。であれば、流れていく時間をまずひとつの時間とし、それを制御する力としての時間もまたあると考えられる。時間の動きが空間内でさまざまにある。それらはすべて同時に起こっているのではないか。ひたすら流れようとする時間とそれを制御する時間がそれぞれ同時刻にある場においてある。そんなイメージがある。

 

その328

 時空間があるのも何らかの原因があってことで、かつ、その時空間に書き込まれる情報は何によってなのか。運動があることで、時空間は書き換えられていく。どう書き換えられていくのかではなく、何によって書き換えられていくのか。時空間を書き換えていくのは何によってなのか。エネルギーなのか。エネルギーはなぜあるのか。何かがあればそこにはエネルギーが宿っている。エネルギーが姿を変えたことで、一個のりんごがある。個物の実在以前にあったのがエネルギーか。エネルギーを満たす容器が空間か。時間はその流れを制御する機材か。エネルギーの流れを制御する時間が実在することで、個物がそれぞれあるのか。

 

その327

 意味とは何か。時空間を埋め尽くす情報の動きではないか。時空とは書き込まれた情報の動きでできあがっているのではないか。時空間に書き込まれた情報が動くことを言い換えれば意味と捉えることができないか。それぞれとしてあるのは情報の動きがそれぞれ制御されているからではないか。制御された情報はその姿をもつ。その姿は動いている。動いているがシステムのうちにある。時空間に書き込まれた情報の動きが制御されている状況とは何か。一個のりんごという制御された情報の動きはそれ自体のみから出来上がっているのではない。そのりんごが影響を受けている情報の動きはどれほどの広がりにあり、かつ、その動きにあるのか。時空間に書き込まれた情報の動きはいかなる状況にあるのか。

その326

 存在に余白はない。すべてというすべてがぎっしりと意味で詰まっている。意味のない何かは存在しない。意味の一切ない何か、それは無だ。無には意味がない。存在すれば何であっても意味がある。意味のない何か、それは存在しないのだから、無である。無はその意味を持たないことから存在し得ないと考えられないか。存在するためには意味がなければならない。意味があるから存在するのか。存在するから意味があるのか。それは知らない。考えてみたい。