認識をとっぱらえば、何も認識できないことになる。理論上ではそうだ。認識しようとするから認識されるのだろうし、それは無意識にも認識しようとしていることを含んだうえでの話だ。認識しようとしなくても、あるものはあるし、ないものはない。ただ、あるとないの間があるように感じられるが、それは認識しようとするからだろうか。あるものがあって、ないものがないのでなければ、あるのにないことになり、ないのにあることになる。あるのかないのか、その中間領域について私たちは考えてしまう。あるようでいてないのか、ないようでいてあるのか。それはただ事物が存在するか否かを意味するばかりではなく、現象として起こっているのか、起こっていないのかについてもあてはまる。
あるものがあって、ないものは徹頭徹尾ないと断言できるのは存在を完全に俯瞰できる神のような存在だけではないか。神でなければ、自然だろうか。あることがありのままにあることを意味する自然において、ないものはないが、あるものはある。