その267

 運動するもののうちに結論を見出すことは可能か。それが何であれ、それはその移ろいにある。空っていく何かがどうであるか、その結論は出せないのではないか。どの瞬間かを取り出すことで、その結論に変えることはできない。移ろいの先端がそれではあるのか。存在する物にはその果てがあるのか。あるのかもしれない。認識できないだけで、存在する物にはその果てがあるのかもしれない。ならば、存在するすべての物が含まれた世界において、その果てがあると言うことができるのか。できるとしても、認識はできない。認識できることだけが事実ではない。認識不可能でも事実としてあることはいくらでもある。知り得ないことが知り得たこととの関わりにある。知り得たこととは何か。知り得なかったことはどのようなことであったかを知り得ない。知り得たことがいかなることであるか、その意味についてどこまで知り得ているのか。

 私は、存在する物の移ろいの突端にいまいるのか。つねにそういった最新の状況に私はいるのか。私のいる位置は常に存在の果てなのか。最先端なのか。突端なのか。私だけではない。存在する物事の全てがその最先端にあるのか。存在に果てがあり、その向こうには何もないのか。引き続き存在は続いていく。エネルギーが存在の姿を変えていくことで存在の果てはその先へと伸びていく。常に突端にある万物はその拡張か収縮か、あるいは、その同時的な変動により、カオスの様相にあるのか。

その266

 何かがある。それは単一にあることはできない。単一にあるものがあるはずがない。単一であるとき、それはそれ以上動こうとしない。動く何かはその複合にある。それだけがあるのではなく、それがあるためにはその他がある。その他とそれがある。それゆえに、それがあることはその他と複合的にある。存在とはその地平に広がる何かである。存在の地平においてあるものはそれが何であっても、その周囲がある。周囲との関連のうちにある何かは何かであり得ているのであり、何かであることだけがそれ自体であることを決定づけているのではない。何かはそれ自体であることを決定づける要因ではあるが、その存在のためにはその周囲が、それ自体がそのようにあることと同一の瞬間において、その決定をもつのではないか。それ自体とそれ自体の周囲は同一の瞬間にそれ自体を決定づけているのではないか。

 

その265

 現実はどれほど言葉によって決定されるのか。言葉が確かに現実を捉え、その意味を言語空間のなかに表現する。それをやっているのは人間であり、人間はみずからが生み出す言語空間との関わりにある。関わりにあるというよりか、その存在自体が言語空間内における。むろん、言語空間内にのみ実在するのではない。言語空間と非言語空間を行ったり来たりしていると言いたくもなるが、否、言語空間にいながらも全く同時に非言語空間にいる。言語は言語空間のみに属するのではないのではないか。非言語空間を含んだ言語こそが言語のあり方ではないか。言語だけしかない空間は存在しないのではないか。それゆえ、言語空間だけがあることはない。単一観念はそれ自体がその単一性として実在するようでいて、存在は常にその関係性にあるのであり、存在する何かとはつねに複合観念である。単独で何かがあっても、それは複合的な実在なのではないか。一個のりんごが複合的であるように、りんごといった観念もまたその意味は複合的である。いかなる観念も複合的な意味を内在するのではないか。

 

その264

 物質として存在するものがそれぞれに分かれているとき、その明確な境目はどのようにあるのか。りんごとバナナは確かに違うが、私たちとってはそれは同一の果物といった部類になると認識される。その認識とは普遍的なのか。普遍とは何か。私たちにとって普遍と感じられることが存在する物質それ自体においてもまた普遍なのか。普遍かどうかの判断を存在する物質がなし得ることはあるのか。存在する物質の側が何かの判断を下すのではないかもしれないが、それがそのようにあることとはつまり、存在するものごとにおいてなされている判断と考えられる。そう考えているのは私たちであり、私たちの認識が存在する物質がそれぞれそこにあることで判断を下していると考えるのであって、存在する物質の側からすると判断しているのではないのかもしれない。では、存在しているだけか。私たちのうちで用いられている言葉の意味がそのまま他の物質にもあてはめて考えていいのか。判断には判断といった意味があり、その意味のうちに、存在する物質もあるのか。そう考えることがそのまま存在する物質にあてはまるのか。当てはまるかどうかはその存在する物質の主観が実際に発露することをもとに、その認識としたいが、存在する物質が実際に判断といった言葉を理解するわけではない。それでも、存在する物質が判断していると決定することは可能か。できないのではないか。

 

その263

 起こっていることのうちで何か一つでも不自然なことがあるだろうか。起こっていることはそのすべてが自然ではないか。自然に起こっていることをその自然のまま理解することができるか。自然とはありのままのことであり、それはいわゆる人工的な現象も含まれる。でないと、起こっていることのすべてが自然だと言うことができない。起こっていることのすべてが自然だというとき、人工的な現象がどんなことなのか、定義されることになる。定義とは、それ自体が存在においてどのようなことなのかをいうのであるが、前提や関係性によりその定義は異なる。何かが人工的であるというとき、対局に自然がある。しかし、すべてが自然だとなれば、人口は自然に含まれる。その時、人工とは自然である人間が自然になした結果生じた現象であり、もともと自然界にないことであっても、自然である人間から発生した現象は自然であり、人工の意味とは単に人間が作ったといった意味で、それは蜘蛛が巣を作ったのと同一の地平にある話である。何かがどんなものであるか、それを言葉で捉えようとするなら、さまざまに記述できる。どのような前提での話なのか。どのような関係性のうえでの話なのか。定義の中心がかりに空であるとするなら、それが何であるかを言葉で捉えるとき、それが何である以前にどんな関係性のうえでの話になるかが問われることになる。それはそのものの本性をあぶり出すのに適当だろうか。空でしかない何かが何かであるとの断言にはつねに可変的な可能性があるのではないか。何かが何かであるのは、何かとしてあると言うことができることに過ぎないのではない。そういうことができるだけで、その実質がほんとうにそうなのかは分からない。実質が空である何かを知っていると思っているのは錯覚か。りんごは果物であるといったとき、果物は何かが問われるわけで、果物とは各各然然であるとしたとき、そのかくかくしかじかとは何かとなる。存在であるりんごは果物かも知れないが、果物とは何かを言葉にすると厳密に定義しきれなさがそこにある。しかし、果物であることは確かだろう。その時、何がりんごを果物と定義したことになるのか。それは、物質レベルでの話であり、言葉ではない。物質レベルで起こっている現象のうちに種が発生する。物質レベルで存在する種がそれぞれ存在の区分けして行くことになるのではないか。それは自然の流れにあるのではないか。りんごとそうでないものでも果物の種のうちにあると物質レベルで定義されるとは何か。それはその姿だろうか。成分だろうか。どうした形式でそんざいがそれぞれ種別に分かれ定義されるのか。

その262

 それぞれが異なる差異を内包しつつも、何かしらの固定点を秘めた実在がある。一個の形式があり、それを元に差異が表現される。形式なき実在は何かあるのか。一切の形式を持つことのない何かが実在することは可能なのか。固定点を持たない何かとは、カオスでしかない。流れとして実在するに過ぎないのか。流れとして実在することの意味とは何か。流れもまた形式を持っている可能性がある。形式をもたない実在の存在の仕方とは何か。ありえるのか。カオスといってしまえば、そこでおしまいか。カオスとは形式を持たない実在であるといっても、それ自体が実際にそのようにあるのかどうか。それを表す言葉があっても実態のないことがあるのかもしれない。形式があるから何かがあると言い切れるのか。わずかでも形式があることで何かがあるのか。ひたすらなるカオスが実在することはあり得るのか。それは形式をもたない状況に過ぎないのかもしれないが、形式を持つことなく何かがあることがあり得るのか。カオスとは実在について用いられるとき、形式を持たないことを意味するのではなく、形式を持つものがカオスにある。それはいかにあるか。関係性の複雑さが予期しない形である。カオスとは存在の仕方ではなく、私たちの認識上においてあるあり方にもちいるべき概念かもしれない。認識内にあるのがカオスであり、認識外には何がいかにあるか、それは知らない。形式を持たないものが仮にあるとしても、それははたして認識可能なのか。認識できないものをどうやって存在として捉え、それがそのようにあると分かるのか。存在していることがあるわけだが、私たちは私たちの認識内においてしか実在していないような錯覚さえする。もっとも、知らないことともその関係にはある。存在の広がりの一切に含まれた実在である私たちは、認識内に実在するようでいて、存在の一切に含まれた実在である。認識の中で生きているような錯覚を覚えるのは、私たちに精神があることを意味する。認識していることだけを意識的に操作することができるわけだが、操作したときに起こっていることは認識の外にあることも含む。偶然がそこにはある。すべてが偶然であれば、存在は形式をもたないが、形式をもつ存在はその必然にある。形式理解はどこまで可能か。理解されない部分は私たちにとっては偶然となるが、存在のあり方における自然からすると必然でしかない。起こっていることはすべてが自然にそう起こっている。すべてが形式にのっとっているわけではない。すべてが形式をもつことなく、起こっているのではない。形式をもちつつも、実在は拓かれ、その運動は形式以上の複雑さにあるのではないか。そのことをカオスと呼べるのかもしれない。形式を超えた複雑な運動のことをカオスと呼べるのかもしれない。

 

その261

 存在の関係性にいて考えたとき、表と裏が相互にその関連にある場合と表と裏が相互にその関連にない場合もまたあるのではと全章で述べてきた。一個の定点を定め、かつ、その運動を追いかけたとき、その点と関係にあることがいくつもあって、関係のないこともまたいくつもあるのではないか。たとえば、一個のりんごを定点とする。かつ、そのりんごは動く。動いている。その運動を追いかけていったとき、存在のすべてと関わりあっているとは考えがたい。あくまでも考えがたいだけで、実際にそうであるかどうかの保証はない。保証はないが、存在の運動を具に観察していったとき、つまりは、存在の関係性が網の目のようにしてある姿を思い浮かべて考えたとき、しかし、それは所詮、認識上にある一個の平面に過ぎないのではないか。存在における張り巡らされた網の目が一個の平面、いや、立体にある。そうした立体を思い描いて、存在のあり方を認識しようとしたとき、その認識は一個に点に過ぎない。かつ、それはどこまで運動を包摂しているだろうか。存在そのもののあり方がその運動としてあるわけで、それはあるがままにある。そのあるがままを把握したいと考えても、思い浮かべることはその限界にある。認識上の立体は厳密には存在と整合的ではない。結局私たちが知り得ることができることは認識内存在に過ぎないのではないか。それは認識機能に依存した認識を持つことを意味する。その機能に依存した認識主観性をもとにした認識が存在とどこまで整合的であるか、それは定かではない。私たちが知っている存在のあり方とは私たちの機能により規定され閉ざされた認識なのではないか。認識とは常にその閉鎖系のことではないか。存在の関係性について、そのリアルタイムを捉えることができない以上、存在の関係性の認識は概念化されたシステムとして実在するより他はない。概念化されたシステムが存在のリアルタイムに適応できるのは、存在がシステムとして実在することの証左である。同じ三角ではない。いくつもの三角があることが存在のシステムのあり方を示している。めぐる宇宙の法則は絶対反復ではない。差異を含んだ反復であり、それはいくつもの楕円があることと同じ意味である。